2014.10.3 函館
袴田事件再審弁護団長 西 嶋 勝 彦
1)この春、再審開始決定とともに、死刑の執行とその為の拘置も解かれ、48年ぶりに釈放された袴田さんは、今、浜松市内の姉秀子さんの許で穏やかな生活を送っています。
しかし、肉体の不調は、拘置所から運んできた胆石除去と胆のう切除、血管拡張の手術を無事終え一先ず回復しましたが、精神の病は癒えておりません。
毎朝死刑囚収容棟の廊下を歩いてくる刑務官の足音が遠ざかって、ほっとした彼の一日が刻まれます。死刑確定後でも33年間この恐怖と安堵が毎日くり返されました。
散歩に出ようと秀子さんや支援の人々が誘っても彼は断ります。定期診断や検査のために病院へ行くのも嫌がります。死刑台のある拘置所に再び連れもどされるとのおびえが、半年以上経っても消えないのです。(注)
無実なのに、死刑の恐怖にさらされてきた袴田さんが、今身をもって日本の司法に突きつけているものは何でしょうか。えん罪を生まない司法を実現するための改革を論議する場であった法制審議会は、死刑事件の再審開始と釈放という無視できない事態がもたらされたのに、これを素通りしてしまいました。
2)袴田さんが犯人と疑われた唯一の証拠らしきものは、事件直後に寮の部屋から押収されたパジャマに微量の血痕とかすかな混合油の成分が付いているとされたことだけでした。優秀な静岡県警の鑑識は血液型と油成分をそれぞれ検出しましたが、警察庁の科警研では血痕は血液型判定不能とされ、油の専門家は油質の鑑定結果に有意性を認めませんでした。
実家に子を預けて経済的に楽ではない、ボクサー上り、寮生活のため被害者の専務宅で食事をしているので屋内に詳しいとして、警察は、袴田さんに早くから的を絞っていました。しばらく彼を泳がせていたものの何も出ないので、警察は50日後新たな証拠もないのに逮捕に踏み切りました。厳しく取調べて自白させれば、パジャマと併せて検察が起訴に持ちこめるとの想定です。再審になって弁護人が入手した県警の総括文書は、「取調官は確固たる信念を持って犯人は袴田以外にはない、犯人は袴田に絶対間違いないということを強く袴田に印象づけることにつとめる」袴田が「犯人は自分ではないという自己暗示にかかっていることが考えられたので、この自己暗示をとり除くためには、前述のように犯人だという印象を植えつける必要があると考えたからである」と告白しています。
このパジャマによる犯行自白も、1年2ヵ月後に犯行着衣とされる5点の衣類が味噌タンクから発見されてウソと判りました。しかし変更後の冒陳、論告もそして判決もパジャマ以外の他の部分は信用できるとしました。1審の死刑判決は、拷問的取調べの実態を認め、45通の自白調書のうち44通を排除したのですが、1通の検事調書だけは残して、犯行のストーリーを組み立てるのに利用しました。
3)5点の衣類を警察によるねつ造と認定した開始決定より早く、袴田さんはすでに確定前の上告趣意書の草案で、これを見破っていました。実家からズボンの端切れが発見されたカラクリも、僅かな間に、二度まで警察が捜索に行ったことを指摘し、「捜索を隠れミノにして浜北の実家に端布を持ち込んだことは動かし難い事実」と断言していました。村山決定は、5点の衣類とセットの証拠となっているこのズボンの端布を、「袴田の実家から端布が出てきたことを装うために捜索差押を行ったとすれば、収集過程の不自然さも容易に説明がつく」「この端布自体もねつ造された証拠である疑いが強まった」と切り捨てたのです。
自白のあと清水郵便局で発見された封筒入りの5万円余のお札も、決定は同様の評価をしています。お札の番号部分が焼かれて余白に「イワオ」と書かれたり、「イワオの罪トウナ」などのメモが同封されおり、不自然さを上げれば切りがありません。決定は、5点の衣類と同じ捜査態勢のもとで意図的に作り上げられた証拠、すなわちねつ造の疑いがあると斥けています。
4)勿論、決定がこのような決め手となっていた有罪証拠を、ねつ造と判断した契機はDNAと色の問題です。まず、DNA鑑定により袴田さんのDNAも被害者のDNAも5点の衣類から検出されませんでした。次にみそ漬け実験により分かった衣類と血痕の色合いが、事件後1年2ヵ月後に味噌タンクから発見されたという5点の衣類の色合いと一見して異なり、むしろ発見直前に漬けられたものという常識的判断です。
検察官は、原審以来、弁護人の主張を裏付けたDNA鑑定の信用性を争い、発見された直後の5点の衣類の色合いと実験により明らかになった着衣の色の対比に、難くせをつけていました。即時抗告審では、さらに弁護側鑑定人のDNAの鑑定手法のみならず人格的攻撃まで行なっています。又、開始決定は、みそ漬け実験のほか開示された5点の衣類発見直後のカラー写真も加えて5点の衣類をねつ造と判断したのですが、この原決定を批判するため、開始決定後に県警がネガを発見したといい、そのネガから焼いた写真によれば発見直後の衣類の色は薄かった、つまり確定判決が依拠した5点の衣類の色合いは、法廷に提出されたあと空気に晒されてどす黒くなっていたので、原決定の対比は意味がない、と検察官は主張しはじめました。検察官は、これまで黒々とした衣類の状態を前提に、「一朝一夕にはこんな色にならない」と裁判所に言わしめていたのです。
この点は、実は重大な問題をはらんでいます。
第1に、検察が独自の手法として批判する弁護側鑑定人のそれは、検察官が8年前神戸地裁に係属した殺人の否認事件において、自ら依頼したこの同一の鑑定人が同一手法でDNA鑑定した結果を科学的に根拠があるものと賞賛し、裁判所もその信用性を肯定して有罪判決の決め手にしていたものです。
袴田事件での検察官の主張は、矛盾しているどころかいわば二枚舌といえます。裁判所を欺かんとする天人ともに許されざる訴訟態度です。
第2にネガ問題は、原審以来焼きつけられた写真があるだけで、元のネガはない、と原審の検事はくり返していました。存在しないと主張してきたネガが、決定後に発見された、不手際だったと高検の検事が謝罪すれば済む問題ではありません。1年2ヵ月味噌に漬かっていても、これまで裁判所に提出されてきた写真の色合いより、今回ネガから直接焼いたものの方がより薄く見える、つまり隠し続けてきたネガも、使えるとの判断から提出に踏み切ったといえるでしょう。
弁護側はもとより、裁判所をも愚弄するものです。
検察官は、このほかズボンの寸法札の色を表わす印字「B」をサイズの「型B」と偽りつづけてもきました。このように証拠をねつ造した警察と一体となって証拠隠しを続けてきた検察官の手元に、まだどのような証拠がかくされているか計り知れません。弁護人は、即時抗告の速やかな却下を求めることとは別途に、取調の録音テープやあらゆる捜査資料の全面開示を求めつづけています。
5)袴田事件が突きつけるもの
これまでの説明で、何が問題でどのように刑事司法が改革されるべきかは、賢明な会場の皆さんにはお解りと思います。袴田事件弁護団長の立場から要約して指摘します。
第1は人質司法からの脱却です。
先の法制審特別部会では、裁判所委員らは、勾留・保釈は適切に運用されていると述べたということです。確たる証拠のない袴田氏の自白を引き出すための逮捕・勾留であった一事をとっても、その欺瞞は明らかでしょう。
第2は、全事件の取調べの録音・録画と弁護人立会いです。
この両者は先進国では一体のものです。弁護人の立会いは取調べに不可欠であり、切り離された可視化議論はそれ自体問題だった、と敢えて私は言います。最高検が通達を出し、検察独自捜査の事件も、可視化する運用となるようですが、法的に検察、警察ともに導入されるのは、全事件の3%以下の裁判員裁判事件だけで、しかも本人が逮捕された後だけです。本人の任意取調べはもとより、参考人の取調べは除外されます。のみならず、制度上定められる録音・録画も暴力団事件は一律に除外するほか、取調官の判断によって大幅な例外が認められます。
袴田さんの経験に照らせば、取調べの全過程が録音・録画されていれば、人質司法の実態と拷問的取調べをもっとはっきり証明できていたはずです。参考人のウソの供述により被告とされた村木さんの事件の教訓が、十分に生かされていません。全事件を対象とすることを目ざして、具体的な拡大のプロセスを追求すべきです。
第3は、代用監獄の廃止です。
過酷且つ起訴後も続く長期の取調べを許す体制を担保しているのが代用監獄です。袴田さんが身をもって示しているばかりか、その廃止は国際機関がくり返し勧告しています。廃止は、日弁連創立以来の悲願ですが、法制審では俎上にも上らなかったのです。
第4は、全面証拠開示です。
再審となっても、なお、証拠を隠し続ける検察官の態度は、立派な証拠の隠匿であり、犯罪ですらあります。袴田さんを苦しめてきたこの証拠隠しは、全再審事件において即刻改められねばなりません。検察官に手持ち証拠のリストを開示させることになりましたが、弁護実践には不十分というべきです。
第5は、検事上訴の禁止です。
検察官に開始決定に対する即時抗告を許す現行手続は、無辜を救済する再審制度を台無しにしています。検察官は再審公判で争えばよいのです。袴田さんは開始決定の確定を徒に延ばされ、再審公判への速やかな移行が阻まれています。無罪判決に対する検事上訴の禁止とともに、再審開始決定への検事の即時抗告禁止は、日弁連が再審法改正の柱の一つとして求め続けてきました。
再審開始決定への検事の抗告は、人権上無罪判決への上訴以上に許し難く、早急な改正が求められます。
第6は、えん罪原因の究明です。
袴田さんを48年間も死刑台の恐怖にさらしてきた、えん罪原因の究明は、断固そして速やかに実現されねばなりません。
開始決定が「国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底耐え難い」と明解に断じたような事態が、誰により、どうして生じたのか。同じ過ちをくり返さないためにも、第三者機関によるその原因究明は必要です。
捜査機関はもとより裁判所も究明の対象となるのは当然です。えん罪原因の究明に聖域はありません。日弁連もその第三者機関が国会に設置されることを追求してきたことであり、躊躇することなく具体的一歩を踏み出すべきです。
第7は、死刑の廃止です。
袴田さんはえん罪死刑囚として5人目となります(一旦開始決定をつかんだ名張事件奥西さんを加えると6人です)。新法務大臣は、本年9月26日の日本外国特派員協会の会見で、最近死刑囚で再審無罪になった者は居ない、袴田事件は再審請求が認められたにすぎない、と語ったそうです。驚くべき事実誤認です。
誤判を免れない死刑は、絶対に廃止すべきです。まず、死刑の執行停止を実現し、制度としての廃止議論を進めてもよいでしょう。フランスの例が示すように、死刑廃止は世論調査や多数決の問題ではありません。文明と人権の問題です。袴田さんを精神を病む状態にまで追い込んだ死刑の存続を、まだ叫ぶ人が居るのでしょうか。結論は出ているように思われますが、まずもって人権擁護を標榜する弁護士会において、会内論議が進められることを期待します。
(注)その後袴田さんは、秀子さんや支援者の誘いに応じ、時折散歩や買い物に出かけるようになりました。東京や名古屋などの集会にも秀子さんについて、壇上であいさつするまでになっています。しかし、発言の脈絡は、まだありません。根気よく克復するのを待つ必要がありましょう。