2019年4月5日
木村総合法律事務所
聞き手 並 木 政 一(31期)
期成会創立当初からの中心的メンバーであった木村濱雄会員(7期)から、創立当時の思い出や弁護士会の状況などを伺った。今とは時代背景が全く違うが、期成会の草創期の話しは興味深く、弁護士としての生き方としても参考となるものであった。
期成会の創立
並木 期成会の結成は、どのようなきっかけから生まれたのですか
木村 まったくの偶然でした。私は弁護士登録早々から、役員選挙で飲食の供応を受ける場に呼ばれて行ったことがありました。同期からの頼みでしたので断ることができなかったからですが、このような選挙活動の実態に批判的な意見をもっていました。同じような思いを持っていたのは私一人ではありませんでした。
記憶の範囲で言えば、3期の樋口俊二さんと鴨田倭信さん、4期の増岡章三さんと7期の私が、昔の東弁会館地下の食堂で偶然に会ったときに始まります。それぞれが弁護士会の現状を憂える話をするうちに盛り上がり、選挙の浄化と東弁の民主化を旗印に会を作ろうではないかということになったのです。私たちはもともと顔見知りで、大派閥を中心とする弁護士会の在り方に疑問を持っていましたので、どの派閥にも入っていませんでした。
並木 結成に向けて同志を広く募ったのですか
木村 積極的に勧誘した記憶はありません。弁護士会の状況を憂えた人が自然に集まってきたような感じです。派閥に入っていた3期の石島泰さん、6期の河崎光成さんもそこを抜けて入ってきました。
並木 当時の社会的状況の影響を受けたという面はあったのでしょうか
木村 正直なところ、私を含めて社会情勢に関する問題意識はあまりなかったのではないでしょうか。弁護士会自体もまだまだ社会的問題に対する活動は少なかったと思います。
当時の弁護士会の実態
並木 当時であっても、役員になろうという人や、弁護士会に関わっていた人たちの頭の中には人権擁護と社会正義を謳った弁護士法はあったのではないですか。
木村 観念的には弁護士法1条の意義は分っていたでしょうね。しかし、それをちゃんとした問題意識として持って活動に生かした人は少なかったのではないでしょうか。
並木 派閥が弁護士会を牛耳っていたという実態は、どのようなことに表れていたのですか。
木村 まず、派閥に入っていないと弁護士会の委員会に入れませんでした。私もそうでした。また、派閥のボス(年配の弁護士)が役員室に来て、役員をけん制しリードすることが日常的に行われていました。
私が東弁の副会長をやっていた昭和45年の頃でも、ボスたちは役員室によく足を運んできていました。
並木 どのような事柄について注文してくるのですか
木村 人事のことが多かったように思います。その他でも、弁護士会の活動や在り方に係ることにも口を出していました。自分たちの考える方向に弁護士会を向けるということでしょうか。
弱小会派出身の私は、それに対抗するために背広の内ポケットに辞任届を忍ばせて頑張りました。
並木 人事とは、司法問題対策委員会、人権委員会、修習委員会などの委員長、日弁連理事や司法研修所教官、最高裁判事の推薦などですか。
木村 そうですね。今は全くありませんが、裁判所から推薦依頼のある大型破産事件の管財人の人選などもそうでした。
並木 弁護士会の人事の問題では、「パラシュート人事」と揶揄する言葉を聞いたことがあります。会長など役員をやりたい人には経験しておかないといけない委員会が複数あって、そこの委員長として突如パラシュートのように降りてくるという意味です。このような現象は今はみませんが、当時はそれが普通だったのでしょうね。
並木 ところで、あの有名な期成会の綱領は主にどなたが作成されたのですか。
木村 樋口さん、鴨田さん、増岡さんが主だったと思います。
並木 弁護士会の運営の民主化や選挙の浄化など綱領にある激烈な表現はすんなりと決まったのですか。
木村 異論があったという記憶はありません。当時の役員選挙の実態があまりにも酷かったからです。選挙期間の1か月間にわたってレストランを借り切って、連日のように飲めや食えやと続けていたのです。また、黒塗りの高級車で会員の自宅などを戸別訪問してウイスキーを配って回っていました。増岡さんは受け取らなかったようですが、弁護士になったばかりの私は、ご苦労様ですと言って貰っていましたね(笑い)。
並木 増岡先生は本当に立派でしたね。
木村 増岡さんは、弁護士会の総会でも自分の意見を堂々と表明していましたね。その姿は脳裏に焼き付いています。立派な方です。
並木 他の期成会の会員で印象深く残っている方はどなたですか
木村 樋口さんは論客でした。もっとも、増岡さんのように総会などで前に立って、ばーっと言うタイプではありませんが。丸ビルに事務所があり実にスマートな人でしたね。
並木 石島先生はどうですか。私は、石島先生が総会委任状問題の議論のなかで大派閥を厳しく批判する姿を覚えています。他派閥の人を糾弾する迫力でした。派閥を、人事を目的して義理と人情で集合した無思想な集団と定義したのは石島先生だったでしょうか。
木村 石島さんは、一高東大卒。弁舌で肺腑を突くような鋭い論法でした。頭が切れすぎて怖いくらいだった。他方で、性格は明るくて親しみやすい、ぶつかっていけるタイプの人でしたね。
並木 その他の草創期の先生方はどうですか
木村 3期の松井康浩さんは、早稲田卒。いつも話に筋が通っており、正論ばかり言う人という印象です。私などが軽く叩いても扉を開かないような厳格な人でした。鴨田さんは、東北大学卒。純朴なところがあって人柄も面倒見もよい人でしたが、一面では原則を曲げない厳しさがありました。3期の齋藤一好さんも東大卒で鋭かった。戦争中は海兵で潜水艦の艦長をしたと聞きました。
3期の高橋高男さんは、温厚で親しみやすい人柄でした。
4期の竹沢哲夫さんは、頭が良い、温厚な人です。
同じく4期では井出正敏さん、内谷銀之助さんなどは楽しい人でした。とくに内谷さんは、期成会の会計を長年見てくれていました。
何故か分かりませんが5期は一人もいないのです。6期では河崎さん、陸士で軍人らしいところがありました。
私の7期は・・・・・、古い人はみんな亡くなっている、・・・元気なのは僕くらいかね。
改革の成果
並木 ところで、期成会が追及してきた選挙の浄化、公正な人事と運営の民主化などの成果があがった、弁護士会は変わった、という実感はいつ頃からありましたか。
木村 確かに、弁護士会が良くなったなという印象はありました。期成会を作って12、3年経ったくらいからでしょうか。盤石な派閥の支配が改まるには世代交代も含めて時間が掛かりますよ。
並木 派閥支配が強かったのは東弁だけですか。
木村 その点はよくわからないけど、似たようなものではなでしょうか。一弁は恵まれたおとなしい紳士の集まりという印象です。二弁は派閥が多くて過激な人もいたが、まずは東弁を変えようということだったので、ほかの弁護士会のことには関心が少なかったですね。
並木 東弁を変えるための具体的にどのようなことをされたのですか
木村 まずは選挙の浄化と人事の公正。これが最大の目標でした。
選挙会規を改正しました。法曹親和会の戸田宗孝先生が委員長で、僕が副委員長のときに、戸別訪問と供応を禁止しました。違反したら懲戒処分です。それまでは選挙会規にはそんなことは書いてなかった。他の派閥でもまじめな人は、現状に問題意識をもっていたので実現したのでしょう。
人事の公正という目標については、制度としては変えたものは記憶がありません。
並木 東弁には以前から人事委員会がありますが、その委員の構成は派閥の力関係(常議員の数)で決まっています。従って、無派閥の人が人事委員になることないのです。そのような仕組みでよいのかという疑問もありますが、いかがでしょうか。
木村 私はそういう問題意識もったことはありませんね。
並木 いまは人事委員会が決めていますので、昔のように派閥のボスが決めるという実態はないと断言してもいいと思います。
日弁連の改革へ
並木 期成会ができて13、4年目の頃には、東弁がよくなってきたと実感するようになったそうですが、そのあと20年目くらいにかけて日弁連の会長選挙に目が向けられたのはどうしてでしょうか。
木村 日弁連会長も、東弁のように大単位会やその派閥のボスが談合して決めていたらどうしようもない。日弁連も民主化する必要があると思って、大阪に出向いて大阪弁護士会の革新派の弁護士と相談して進めてきました。大阪にも同じように日弁連会長選挙の実情を憂いている人たちがいたのです。
並木 日弁連改革の具体的な内容は、全会員による直接選挙制ですね。それまでの代議員による間接選挙と違って、ボス支配はゆるむし、供応接待もやりきれないだろうということですかね。
木村 東弁のような大きな単位会のボスや、会長経験者が集まって相談して順番を決めていた。話し合いが付かないときはくじで決めた、くじを引く順番をジャンケンで決めたという逸話も聞いたことがあります。
並木 会長の任期を2年制にしたことも大きな改革ですね。
木村 1年だと名誉職で終わってしまう。なるために力を注いてきて、やっとなったと喜んでいるうちに1年はあっという間に過ぎてしまう。会長になっても何もできないですよね。
並木 東弁会長も同じではないのですか。
木村 基本的には同じでしょうね。
並木 東弁会長の任期を2年にしようという考えはあったのですか。
木村 それはなかった。任期を長くすると日常の仕事ができなくなるので無理でしょう。自分が副会長やったときも事務所に1日も出ることができなかったですから。任期は1年が限界だと思う。
並木 期成会は、日弁連の執行力の強化のために、東弁から出す日弁副会長を分離副会長として、東弁会長の兼任ではなく別の人を出す制度を作ったことがありますね。しかし、この制度は数年でなくなりました。私は、松井先生が分離副会長にチャレンジして僅差で敗れた選挙を覚えています。この制度をやめた過程はどうだったのでしょうか。
木村 私も分離副会長制度を主張したのが期成会だというのは覚えますが、なくなった過程は記憶がないな。推測するに、やはり兼任のほうが会務を運営しやすいという点はあったのではないでしょうか。
期成会に足りなかったこと
並木 振り返ってみて、期成会に足らなかった点はありますか。
木村 期成会の人は理が勝ち過ぎていて情の部分が希薄ですね。もう少し情というものを重視した運営を考えた方がよかったと思います。期成会の中心的なメンバーであった松井さんや鴨田さんは、とにかく厳格な人でしたから、そういう人の影響でしょうか。
並木 弁護士会の運営にも同じようことが言えますか。
木村 一時期の東弁はそういう傾向があった。期成会の影響力が強いときは特にそうでしたね。世の中はすべて理屈で動くわけではないのですがね。
並木 私は、いまの弁護士会もそういう傾向が強まっていると思います。東弁の運動会も予算の関係で中止になりました。
木村 弁護士が日常業務を離れてまとまるのにとてもよい行事だと思います。ああいうものがなくなるのは残念ですね。
並木 期成会の活動を続けてこられて、もうこのあたりが活動の限界だなと感じたことはありますか。
木村 そのように感じたことはないな。その前に活動の一線から足を洗っちゃったからね。
並木 期成会の運動の成果が表れてきてから、派閥の古い層から巻き返しのような動きがありましたね。総会の委任状の導入や副会長の増員などは、数の力で期成会の影響力を弱めるものだとして猛烈に反対運動をしましたが、後からみると、特に変わって悪くなったという実感はありません。そうなると、私たち何のためにあれだけ反対したのか分からなくなります。
木村 当時は数の論理による派閥支配が一層強まると心配したのですね。法曹親和会も法友会も会員数を大きく増やしていましたから。
いまの期成会について
並木 木村先生は、期成会から送られてくるものには必ず目を通しているようですね。現在の状況や問題点も分かっておられると思いますが、いまの弁護士会や期成会をどう見ていますか
木村 期成会も弁護士会も、人権擁護・社会正義の実現の使命感が希薄になっているのではないでしょうか。おろそかになっているように思います。弁護士法1条の使命を自覚した社会的活動をもっとしないといけない。
他方で、弁護士会がこのような活動をしていることを世間の多くの人が知らないことは非常に残念です。もっと世間に向けた活動をしないとね。プロパガンダがへたなのでしょうか。しかし、それがあまり上手というのもどうかとは思いますが(笑)。
ワークライフバランス
並木 期成会や弁護士会から離れますが、木村先生は仕事と私生活とのバランスを取った生き方を実践されてこられましたか
木村 自分としては意識的にバランスをとってきたつもりです。長男と次男には弁護士になれと言ったことないですから、私の背中をみて弁護士の仕事や生活を理解してくれたのかなと思います。
並木 木村先生の目から見て、期成会やその他の活動に熱心なあまりバランスがとれてないと思われる会員はおられましたか。
木村 自分より先輩方をみてみると、決してバランスとってきたとは思えませんね。この点では松井さんは論外でしょうね。河崎さんはまじめですが頑固でしたね。もう少し柔軟性があってもいいと思ったことがあります。
並木 ところで、木村先生はどのような趣味をおもちですか。
木村 学生の頃から趣味はないですね。いまはスポーツジムに行く以外では本を読んでいます。スポーツジムには週2日は行っていますが、ベンチプレスやダンベルを持ち上げて筋トレをすると、頭の回転にもよいのです。すっきりしますから。
銀座に飲みに行くことには関心はなかったですね。料金などシステムが分かっちゃうと、ばかばかしくて自分のお金で飲みにいく気にはなれなかった。
並木 引退についてはどうお考えですか。
木村 弁護士に引退はありませんが、そろそろ引退してもいい、すべきではないかと思うこともあります。去年くらいからかな。孫も弁護士になるしね。
でも、仕事しないと、ぼけちゃうのがいやですね。奉仕でいいので、健康・ボケ防止のためにやろうという気持ちです。
定年になって仕事から離れられることを、うらやましいとは思ったことはありません。65年弁護士をやって90歳になってもまだやれるですから、つくづくよい仕事だなと思います。サラリーマンをやっていたら25年も前に定年になっていますから、今頃は家で、ぼーっとしていることになるかな。私にとって65年はあっという間でした。そんな長いとは思わない。大変なこともなくて幸せな弁護士生活だったと思います。
若い弁護士に一言
並木 最後に若い弁護士に向けてお願いします。
木村 月並みですが、決して金儲けをしようとしないことでしょうか。
仕事で金儲けしよう、金を残そう、と思うと間違いなく事故を起こすことになりますから。報酬を高く吹っ掛けて懲戒になるとかですね。私は無理な報酬を請求したことはなかったですね。高いと言われたこともありません。
もっとも資本主義社会ですから、株とか弁護士業務以外のことで儲けるのは悪いことではないと思います。私も株をやっていました。ボス弁がやっていたので自分も興味を持ちました。当時は、業界のトップ企業の株を持っていると必ず値が上がっていましたから。そのお金で事務所や家を買うことができました。いい時代だったのです。
依頼者に対する思いやりと感謝の心を忘れちゃいけないですね。弁護士の仕事は法律だけ知っていてもだめなので、情や思いやりが大事です。法律相談をしていると、報酬をもらうという気持ちがなくなることがよくあります。相談料はいらないから、いつでも、またいらっしゃいと言ってあげることもありますよ。
そういう姿勢で仕事をしていると、おのずから信用が出てきて、いい人(顧客)がついてくるようになります。高利貸しとか事件屋さんたちと付き合うと利用されてしまうこともありますから、距離感をもって適当に付き合うことが必要です。私自身も経験がありますので注意して下さい。
(期成会創立60周年記念誌第1巻『わだち』所収)