―東京弁護士会人権賞受賞記念 特別講演―
平成9年1月20日
弁護士会館
豊田 誠(13期)
高木國雄(平成8年度期成会代表幹事) いわゆる水俣の全国連絡会の事務局長を務められ、実質的には水俣病解決の相当な部分を担われた豊田誠弁護士をご紹介いたします。私ども期成会は、夏にはHIV関係の活動をしている同じ期成会の弁護士の方を、あるいは官官接待ということが問題になるとそういう先生をお招きし、あるいは沖縄の問題が去年の初めから世の中をわかせてきますと、沖縄問題の活動家を招くなどしてきました。うまい具合に全部この期成会員の中で賄えるということで、大変その都度大きな勉強をしてまいりました。そういうわけで、きょうは先生の裁判内外の活動、あるいは裁判内外の活動を通しての、社会、経済、文化の国民的な大きな意味、評価というふうなものを加えて、いったい弁護士がどれぐらいのスケールの活動を率いることができるのか、あるいは影響を与えられるのかというあたりで、われわれの日常の弁護士業務にも、ひとつ応用点を与えていただければ大変ありがたいと思っています。どうかよろしくお願いいたします。
1 はじめに
今回、人権賞を受賞するにあたって、私も受けるか受けるべきでないかいろいろ悩みましたけれども、共に闘ってきた弁護士集団や被害者、支援、そういった人たちのことを思うと、やっばり私が受けたほうがいいという具合に最終的な決断をしたわけです。しかし、本当に人権賞に値するかどうか恥ずかしい限りです。
先日、期成会のほうから、「いま私たちがなすべきこと」という期成会の政策パンフをお送りいただきました。この装丁の立派さにも驚きましたけれども、期成会は司法の改革に向けて重大な政策を提起しているなということを痛感いたしました。この中で、クラス・アクションについては私は反対の意見をもっていますけれども、しかし、日本の司法を変えていく、しかも最高裁や法務省との間で対決をしながら変えていくというこの活動は、広い意味では人権の確立へ向けての大事業だろうという具合に思った次第です。期成会がこういった政策を出して弁護士会全体を変えていくという活動も、広い意味での立派な人権闘争の基本になっているのではないかという具合に私は痛感したわけであります。期成会の会員としては私は落第生です。結集は悪くて会費しか払わない。その私が期成会にこうした機会を与えていただいたことに、本当に気恥ずかしい思いをしている次第です。
期成会の方々は弁護士会の改革を中心に精力的に活動してきました。そして、期成会に加入している会員はさまざまな人権闘争に関与してきました。私が先日びっくりしたのは、いま「水俣病の裁判と運動の記録」の総集を全4巻でつくろうという作業をやっているわけですけれども、昭和42年6月に新潟で現代の公害訴訟が一番最初に提起されたときに、工藤勇治弁護士は同期なんですけれども、なんと彼が原告代理人になっているわけです。ですからそういう意味では、期成会に結集される会員の方々は会の改革だけではなくて、すべての人権闘争に意欲をもっているんだということを、私は彼の名前を見ながら痛感した次第です。
2 社会と人権
水俣病との邂逅
ところで、私が水俣病を本気になってやる気になったのは、昭和59年3月27日のことです。どんなことがあったかと言いますと、前の晩に水俣協立病院の野中君という事務局の方が当時私がおりました旬報法律事務所を訪ねてきて、ぜひ川崎に一緒に行ってくれという話をされました。
川崎の工場街に近い、いわば労働者の街のど真ん中に、宮路澄子さんという方が住んでいました。私は水俣病のことはあまり詳しく知らなかったわけですけれども、しかし、見るからにこの人は病気だな、かなり重い病気だなということが索人目にもわかるような症状を呈していました。当時、熊本で裁判が既に始まっていましたので、こんなに身体が不自由ならどうしてあなたは裁判に加わらないのですかと尋ねました。そうしましたら、そのおばあちゃんが言うのには、「うちの主人は水俣病の認定患者なんです。そして、息子がちょうどいま婚約の話が決まったばっかりで、息子の婚約した相手方は都内の人なんです。もし自分も水俣病だということで裁判に加われば、おそらく川崎で一番乗りで名乗りを上げるわけですから、新聞にも出るだろうし、テレビも映すだろう。そうなったら、自分の息子の嫁さんになる方の実家の方々はどう考えるだろう。舅も水俣病のれっきとした認定患者。姑の私も水俣病だと言って裁判に名乗り出たということになると、舅、姑が二人とも水俣病患者だということになってしまう。そういうことになると、嫁にやる先から見ると、いわば看病のために嫁に出すみたいなことになってしまう。そうすると、結果としてはせっかくまとまった息子の緑談が壊れてしまう。そのことに私は耐えられないから、自分のいまの水俣病の病気の苦しみを我慢して、息子がもし結婚することができるのであればそっちのほうを選びたい。」こういう話しをされました。
私はその話を聞いていて、本当にガーンと頭を殴られたような気がしたんです。それはどういうことかと言いますと、川崎というのは革新市長の街、しかも労働者がいっぱいいる街で、水俣の現地から移ってきた患者が、自分の病気のことさえ口にすることができない。こんなに人権が抑圧されていていいものだろうか、ショックを受けるとともに本当に腹が立ちました。同時に、それを去ること17年前の昭和43年、イタイイタイ病の現地に入ったとき、そのときのことを私は二重写しに思い出しました。富山で近藤忠孝さんたちと一緒に青年法律家協会の弁護士が現地に入ったときに、農家の人たちはもし自分たちが裁判に打って出れば嫁の来手がなくなる、コメが売れなくなる、そう言ってみんな尻込みをして、昭和43年1月7日に東京からたくさんの若い弁護士が集まったけれども、誰一人として裁判をやろうという手を挙げなかった。
イタイイタイ病対策協議会という被害者の会の組織が、裁判をやるという方針決めていました。弁護士が行って、さあ裁判ということになると、具体的に誰が原告になるかということになるわけですけれども、とうとう1月7日には手を挙げる人がいなかった。その理由はいま申し上げましたように、嫁の来手がなくなる、コメが売れなくなる、これが農民たちを尻込みさせた最大の理由だったわけですけれども、その昭和43年1月の富山での思いを私は川崎で二重写しに思い出して、こんなことは絶対に許されることではないという具合に思いました。
川崎の市長は、川崎の民主勢力やさまざまな労働者の人権運動によって支えられて当選した革新市長だったと思います。民主主義や人権の発展、伸長のないところでは革新市長も生まれないでしょう。しかし、革新市長が生まれたからといって自然成長的に人権が育つものではないということを、私は嫌というほどそこで思い知らされたわけです。
その患者たちと会って、当時手ぐすね引いて何かやりたいと言っていたスモンの弁護団に働きかけて、その年の4月下旬に水俣へ行きました。現地調査に行ったわけです。当初は遊び半分でスモンも解決したし旅行でもしようかということで行ったわけですけれども、そこで私たち弁護士は、胎児性水俣病の患者をこの目で見ました。あまりの悲惨さ、これがいったい人間なのか、どうしてこんな人間が産業公害によってもたらされてしまったのか、本当に心の底から怒りが沸き上がってくるのを抑えることができなかったものです。
その胎児性の水俣病患者の延長線上に川崎で自分の水俣病も名乗ることができない患者がいる。そういう息者が万といるということを私たちは知りまして、斉藤一好団長もそのときに行ったと思いますけれども、酒を飲んだ勢いではなくて、真面目に議論をした。そして水俣の湯の児温泉で、結局みんな目の色を変えて、よしっ東京で水俣病をやろうじゃないかということになった。水俣の温泉旅館で水俣病東京弁護団を結成して、そして当時、名乗りを挙げていた6人を原告にしまして、5月2日に東京地裁に訴訟を提起するという、非常に早業でこの問題に取り組みはじめたわけであります。
救済は神だのみ
私が初めて鹿児島県の出水へ行ったのは昭和59年11月22日です。どうして鹿児島県に行くようになったかと言いますと、東京で私たちが接触をしていた患者は、ほとんどが鹿児島県の桂島という島から出てきていた人たちだったんです。都会へ出てきている方々ですら名乗り出ることができないという状況だとすると、現地はいったいどうなっているんだろう。当然疑問が湧くわけであります。そこで出水の現地に私ども弁護団が入っていくわけでありますけれとも、私は最初にその患者の人たちが集まったときのことは今でも忘れることはできません。本当にたくさんの人たちが集まりました。漁村の家という建物がありまして、その2階が集会場になっていました。たくさんの人たちが集まったんだけれども、全部後ろのほうに座りました。1人のおばあちゃんが1番前私の目の前に座っていました。
私は水俣病問題を解決するためには、皆さんが立ち上がって裁判をやるしかないということを、弁護士として懇々と訴えました。そのときそのおばあちゃんは何をしていたか。私の話を聞かないで数珠を持って、ナンマイダ、ナンマイダ・・・これだけなんです。結局、神頼みの心境になっていたわけです。だから弁護士がいろいろ道筋を話してもそんなことは頭に入らなくて、誰か自分を救ってくれる人が来たんじゃないかということで神頼みしているという雰囲気が、そのおばあちゃんの姿からひしひしと感じました。
これは後日談ですが、パンフレットをつくるときに写真の取材班が現地に行って祈願の石を見つけたわけです。汚染地域の水俣・出水という、この街の対岸のほうに長島という半島があります。この長島に行人岳という山があるんです。この行人岳の山の上に祠がありまして、その祠は漁民の人たちが大漁祈願だとか、安全の祈願をする、そういう祈願のためにカボチャ大の石ころに願い事を杏いて、それを供えてお参りする場所があるんです。そこに、「水俣病患者に決まりますように」「一生かかっています」という、昭和59年9月30日付けの、誰が書いたかわかりませんけれども、祈願の石があるんです。ですから、私の目の前で数珠を持って私の話を聞かずに、数珠でナンマイダ、ナンマイダとやっていたおばあちゃんも、祠に願を掛けた方と同じような思いが心の底にあったんだと思うのです。つまり、展望のないところでは人権の自覚というのはなかなか生まれてこないし、足を動かすという実践も生まれてこないのです。そういう展望のないところでは神頼みにどうしてもなってしまう。そういう非常に追い詰められた状況が出水の患者の中にはあったんだろうという具合に思います。これは何も出水だけではなかっただろうという具合に思います。
差別と中傷の中で
そういう展望のないところでは、どうやって闘うかということもはっきりしないし、神様にお祈りしてすがりつく、こんな雰囲気だったわけですけれども、弁護団が入って裁判をやって闘うことの必要性を訴える中で、被害者の人たちも少しずつ変わってきました。最初は保険を掛けるつもりで、1ヵ月1,500円の団費を払えばやがては補償額がいくらかで返ってくる。一種の保険だなといって、そういう軽い気持ちで人った人もいるかもしれませんが、だんだん何回も何回も患者の人たちと交流するうちに、患者の人たちの重い口が開くようになってきました。この患者の人たちは街の中で大変な差別と中傷を受けていたわけです。当時は裁判に打って出る人というのは熊本の弁護団が扱っていた200人ぐらいしかいなかったわけです。あとはどうしていたか。行政(鹿児島県)に対して、私は水俣病である、そのことを認定してくださいという認定申請を出す。県は「水俣病ではない」といって棄却してくる。再申請する。また棄却される。その繰り返しをやっていたわけです。認定申請、棄却。申請、棄却。申請、棄却。そのうちにどこかで当たるかもしれない。いわば宝くじみたいな、そんな他力本願的な思いでみんなやっていたんです。それもこっそりと隠れてみんなやっていたんです。被害者の会の事務局長はそのことを世話してきましたけれども、周りの人たちに自分が申請しているということはできるだけわからないように伏せておく。慢性の水俣病の患者というのは、外から見ると健康人とそんなに区別がつかないわけです。もちろん仕事もできる。したがってそんなにお金が欲しいのか、お前は偽患者じゃないかという話がひろがって患者が孤立させられる。そういう状況がずっとつづいていたんです。
しかも、水俣病の闘いを振り返るときに非常に不幸な事態が起きてしまった。4大公害訴訟のときに水俣病は勝訴するわけです。昭和48年3月です。48年3月に4大公害裁判の1つとして、勝利判決を取って、協定書をチッソとの間で結ぶわけですけれども、そのプロセスの中でいわゆる「告発」といわれている暴力を振るう集団が、全体の連帯した運動を壊してしまうんです。昭和48年3月、4大公害訴訟の熊本の判決があるまでは、熊本県の当時の総評、社会党、共産党、すべての民主団体が入った熊本県の共闘会議がありました。ところが判決の直前になると、「告発」といわれた、当時黒い装束を着て跋扈していた集団が、東大などから来たやり手がおりまして、そういう人たちが大変な力を持っていて、そして「裁判闘争に水俣病の闘いを矮小化するのはけしからん」「裁判で勝ったって水俣病は治らないし解決しない」「だいたい裁判闘争に水俣病問題を矮小化しているのは弁護団だ、けしからん」と言って、弁護団排除の動きを判決の直前にやるわけです。
東京の丸の内郵便局の隣にチッソの本社が昔もありました。いまでもあります。その本社の前で判決を受けて、チッソに対する要求行動を組織して、当時、総評の宜伝カーがチッソ前に乗り着けて、それでチッソの社長に対して要求を突きつけようとしましたときに、その「告発」の暴力的な集団が竹竿を持ってきて殴りかかってきたんです。総評の幹部もそれで怪我をする。弁護団も傷つけられる。とうとう弁護団排除のままで当時の自主交渉が行なわれた。それに全体がもう嫌気をさしちゃって、もう水俣病はやめたといってみんな潮を引くように水俣病の支援から手を引いていっちゃう。それは昭和48年です。結局最後に残ったのは共産党だけだった。共産党だけが水俣病の支援をコツコツとつづけてきた。そのことが逆に、地域の人たちには水俣病の闘いは共産党の運動だと、こういう具合に理解されてしまったわけです。確かに共産党しか支援していないという状況の中で私たちが鹿児島に入っていくわけです。私にはあまり質問はなかったんですけれども、尾崎弁護士あたりには当時の鹿児島の労働組合の幹部から、君たちの弁護団の性格はどうだというような質問があったんじゃないかと思いますけれども、私たちがどれだけ幅広くやろうと思っていても、そういう歴史の過去を引きずっているものですから、なかなか運動が拡がらないという非常に困難な時期がありました。
運動の輪を広げて
鹿児島の患者を東京地裁に提訴するときに、鹿児島の弁護士会が挙げてわれわれと一緒に闘わなければいけないという方針を決めまして、鹿児島の弁護士会の全会員に水俣病の東京訴訟の代理人になってくれということを依頼しました。いま100歳近くになる山下さんという弁護士、この方も代理人になりました。結局鹿児島弁護士会の過半数、70名ぐらいいて35、6名ぐらいが代理人になったんです。鹿児島の弁護士会も支援しているということで出水の運動に入っていくわけですけれども、それでもやはり東京の弁護団はよそものでした。よそから出水の静かな街に入ってきて、この街をかき回すのではないか。あの弁護団はどこかの政党の下請けをして、またここで何かやるんじゃないか。こういう目でずっと見られてきたんだと思うんです。これを克服していくのは本当に大変なことで、つらい長い時間がかかったわけですけれども、その局面を切り開いたのが2年後の水俣病を考える「出水市民千人の集い」でした。集会の位置つけをどうしようかと考えるとき、私たちの発想だとすぐ水俣病を支援する集会にしようという具合になりがちなんですけれども、水俣病を考える集いにしよう、しかも市民中心の集会にしようということで、水俣病に疑問を持っている人、反対する人も全部来てくださいと呼びかけた。本当の話をみんなでしようじゃないかということで呼びかけた集会が昭和61年11月27日の、東京弁護団が出水に入ってから2年後の集会になります。
この集会は画期的に成功しました。出水の街は人口4万です。4万の街で1000人の集会、これは文化会館の大ホールを全部埋めつくしたわけですけれども、そこで私たちも水俣病を支援してくれということを言わないで、水俣病というのはこういうものなんだということの事実の訴えを中心にやりました。この61年11月の市民の集いをきっかけにして、街の雰囲気が変わりました。私たちは出水に行くと、いろいろなところでいろんな情報が入ってくるわけです。弁護団はこうだとか、ああだとか、いまこういう動きがあるとか、そういう1つ1つの街の情報も蔑ろにはしませんでした。町の空気が変わったということを、肌でだんだん感じるようになってくるわけです。
そうしますと、被害者の人たちが今まで神頼みで、足が竦んで前に出なかった、あるいは認定申請という手続きをするのにも人に隠れてこっそりやっていたのが、今度は自分の足で行動に出る、患者の人たちは出水市の中で一番人通りの激しいスーパーの前でビラまきをやるようになりました。これは大変な変化なんです。患者の人たちが水俣とか出水から東京へ出てきてビラまきする分にはちっとも恥ずかしくないんです。やれと言えばやるんです。だってもらう人は全部誰も知らない人ばっかりですから。ところが地元でビラをまくということは、自分が患者だということを名乗るわけですから、たすきを掛けてやるわけですから、どこそこのおばあちゃんに顔を合わせた、どこそこのおじいちゃんに顔を合わせた、ということになるのです。
ですからそういう意味では、意識ががらっと変わらなければできないことだと思うんです。そういうことをとうとうやり出すようになってきました。その患者の人たちがそうやって動きだすことによって、また支援の輪が拡がっていくという相関関係が生まれてきました。自分の足で動くということが、私は闘いの原点だろうという具合に思います。
それは弁護団も同じだと思いますけれども、自分たちが現地に入って、そして本当に被害者の苦悩を一緒に味わって、どうやったら足が前に出るかということを一緒に考えて、そして患者の人たちの足を一歩でも前に出させてあげることが私たちの役割だと思いますけれども、その患者の人たちがとうとうそういう集会などを契機にして竦んだ足を一歩前に踏み出すことになったわけです。それが運動をぐんと拡げていく。とうとう出水市議会で水俣病に関する決議を取っていくわけです。武家屋敷のある保守的な街の中で水俣病の問題に市民の目が向いてきた。被害者が市議会に訴えにいく。そういうことができるようになってきたということは、大変な変化だという具合に思います。それは被害者自身が自分で足を前に出したからなんです。被害者が足を前に出すについて弁護士がそれをちょっと介添えしてあげたからなんです。
人権は生き物
私は人権というのは生き物だと思っています。育てれば育つし、育てなければ死んでしまう。そういう意味ではどんな人権でも、とにかくそれを自覚した人たちがみんなで育て上げていかなければ決して生きた人権として育っていかないだろう。そういう意味では、ことしは憲法50年を迎えるわけですけれども、憲法の中にはさまざまな民主的な条項とか、人権保障条項があります。裁判所の判断が悪い、政治が悪いということだけでは、私はこの憲法50年の年は乗り越えられないと思います。私たちが主体的にその人権をどこまで育て上げて、いま何が問題なのかということを、法律家であるわれわれ自身が、この50年の年に改めて問われることになるのではないか。いったい憲法の実践を私たちはどれだけやってきたのかということを、私たち自身が吟味され点検される年になるのではないかという具合に思っています。
人権は生き物と言ってしまうと非常に抽象的になってしまうんですが、水俣病弁護団は足掛け12年やってきました。来る日も来る日も水俣病。かかってくる電話はマスコミか水俣病の関係かどっちか。そういう日がずっと続いてきました。尾崎弁護士が鹿児島へ通った回数は去年の秋までで437回になります。私は328回。10で割りますとだいたい尾崎弁護士の場合には年40回ぐらい、月3回。そして1回行くとだいたい最低1泊、多いときは2泊から3泊。それを全部手弁当、持ち出しでやってきた。どうしてこんなことをやることができたのか。また、やらなければいけなかったのかということを考えてみますと、私はやっぱり患者の人たちの生きざまが次第、次第に変わってきている、自分たちの運動の中で変わってきている、そのことを体感できたからではないかという具合に思います。
例えば、水俣病で漁しかできなかった漁師の人たちが、霞が関の環境庁の前で宜伝カーの上からスピーカーで堂々と演説をする。こんなことはつい6、7年前には考えられもしなかったと思うんです。しかも、霰が関でビラまきをやるにしても、だいたい水俣病の患者は四肢末梢の感覚防害がありますから、1枚1枚めくるのが非常に苦手なんですね。感覚障害があるから1枚をどうやって取るか。特に雨の降る寒い日なんていうのは、本当に私たちですら嫌なのに、あの節くれだった太い指で1枚1枚取って、「水俣病です。よろしくお願いします」これをやる。私たち弁護団は患者の人たちが病に侵されたうえに、しかもこういうことまでしなければいけないのかという思いにかられたことはもちろんですけれども、同時に今まで神頼みでこっそりと隠れて自分さえ認定されればいいという具合に思ってきた人たちが、名乗り出て街頭で自分の病をさらしている。この変わりように私たち自身は大きく励まされたという具合に言っていいと思うんです。
人が変わる。その人が変わっていく姿を現実に目の当たりにして、いわばドラマを見るような感じで私たちのくたびれた思いを叱咤激励した。山下蔦一さんという元チッソの工場で働いていた労働者がいます。この人は自分が工場で働いていたときにアセトアルデヒドを含んだ排水を自分が垂れ流しているわけです。そして、自分が垂れ流してしまったその排水によって、自分の両親や妻や自分も水俣病に侵されてしまった。山下さん自身はそんなに軽い患者ではありませんが、しかし聞くところによると、お父さんやお母さんというのは、涎を流し苦しんだ重症の、しかし水俣病と認定されないまま死んでいった患者なんです。そういう過去を彼は引きずっているわけです。
誰かニューヨークの国連に署名を持って行ってくれないかといったときに、とてもニューヨークまでは10何時間飛行機に乗っていくのは身体が持たない、死んでしまうと言ってみんな尻込みした。そのときに山下さんは俺が行くということを決意する。ニューヨークに発つ前の日に、東京あさひ法律事務所に寄りまして、「先生、今からアメ横へちょっと寄って、それから旅館へ帰ってあした成田から行きます」と挨拶に来ました。何のためにアメ横へ行ったんだろうと思っておりました。そしたら、彼は自分の孫たちにアメ横から形見の品を全部送っていたんです。飛行機事故ということはもちろん考えないわけですけれども、ニューヨークヘ行く行程の中で死ぬかもしれないという思いで、アメヤ横丁であまり高くもないお菓子だと思いますけれども、孫たちに全部形見の品物を送っている、そして成田から飛んでいきました。
そういう話を聞くと、私たちはじーんとくる。この人たちはそこまでして闘っているのか。これは放っておくわけにいかない。そういう思いにかられたものでした。そういうドラマというのは、いっぱいあるんです。
患者の人たちが、神頼みで自分さえ良ければという思い、それがやがて裁判という形で連帯して闘う、外へ出て、自分たちが恥をさらして訴える、こう変わっていく。非常に特徴的なことは最後の解決の場面でした。政府の提案した金額はわずか1人260万円。裁判原告の2000人も260万。裁判をやらなかった人も260万。この政府の解決案に対してどう対応するかということが、この人たちのいわば人権感覚がある意味では吟味された。それは弁護士である私たちもそうです。患者の中には「私たちは今まで裁判をやってきて会費も出してきた、ビラもまいたり、東京へ行ってエネルギーを使って、暇も潰してきた。それが何で裁判をやらない人たちと同じ260万円なのか。これはおかしいじゃないか」という議論はありました。出水の漁民の人たちは水俣病に罹っているとは言いながらも、例えばエビの漁に行くと一晩で4万円も水掲げがあるんです。ボラの漁なんかに行くと10万単位の水揚げがある。もちろん1つの船ですけれどもあるわけです。それを放っぼり出して東京へ来て、労働組合とか民主団体に訴えて歩いたり、ビラを配ったりしてきた人たちなんです。裁判をやらない者と同じような解決だったら、何のために裁判をやったのか。裁判をやった人たちのほうが損したじゃないかという議論が当然ありました。
しかし全体の議論は、自分たちが闘ったから、闘わない人たちにも同じような救済の道を開くことができた、それを勲章にしようじゃないかという意見が圧倒的な多数意見だった。圧倒的部分は、むしろ、自分たちの闘いによって政府を変えることができた、勝ち取った260万は確かに少ないけれども、それは自分たちの運動の力量が反映したのではないか。自分たちが闘ったからこそ自分たちもわずかではあるが260万もらえたし、闘わなかった人たちも同じように260万もらうことになったんじゃないか。そのことに誇りを持とうということだったのです。この考え方は私は立派に人権意識が成長している証だろうという具合に思います。
ちなみに、水俣病は2000人の原告を組織しました。最終的に、いままだ救済事業をやっていて、この3月の終わりでだいたい終わるわけですけれども、救済する数は全部で1万1000名になります。弁護団は2000人分からはほんのわずかの報酬がいただけるんですが、あと9000名については弁護団はただ働き。最終決断のときの議論に示されたように、私はこの患者の人たちが40年の水俣病の歴史の中で苦しみ抜いて、いろんな道程を経ながら、最後には国民の人権を守るというところまで成長しきった姿を見ることができるのではないかという具合に思うわけです。そういう意味では、この水俣病の闘いに参加して私は非常に幸せだったと思っています。
3 司法と行政
水俣病裁判のひきがね
ちょっと話題を変えますけれども、水俣病の裁判はいわば行政が司法を無視したところから始まった、極端に言えばそう言っていいと思います。これが水俣病国家賠償裁判の引金になっているわけです。水俣病をどう捉えるかというのは非常に難しい「医学」論争を含んでいます。ですから政府が、あるいは行政がどこまでを水俣病と決めて救済するかといったら、行政がその判断に基づいてやるのは勝手なんですけれども、それがあまりにも狭すぎた。そのためにそこからこぼれる人たちが圧倒的に多かった。この人たちが裁判をやった。これは第二次訴訟といいますけれども、この裁判で勝った。裁判で勝てば行政は反省をして認定の基準を変えて拡げてくれるだろうという具合に熊本の人たちは期待しました。ところが行政は開き直っているんです。「司法の判断と行政の判断は違う」と。これで片づけられてしまいました。そこでせっかく裁判で勝ったんだけれども、司法の判断を行政が無視した。それならばいっそのこと国の責任そのものを追及しようじゃないかというとで、国家賠償の訴訟が始まるわけです。
裁判所のこれまでの公害事件の判決を見てみますと、行政に追随してきた判決がいっばいあります。司法官僚による司法の統制が行政追随型の司法を形成してきたことは否めない。司法が、最高裁判所を頂点として自らをそういう具合に育ててきた。その結果として、行政を裁くような判決が出ても裁判所は無視される。行政が逆に裁判所を無視してしまう。一番特徴的なことは、水俣病では東京地裁から始まって5つの裁判所が和解勧告をしました。最高裁が主導して和解勧告をさせているのではないかという見方もありましたが、それは全く事実に反します。私たちが裁判所を次から次へと口説いて和解勧告を次々と出させていったわけです。最初、1つじゃ足りないかもしれないけれども、2つぐらい裁判所が和解勧告すれば行政は解決に乗り出してくるだろうと、非常に甘く考えていました。ところが行政のほうは、現段階では和解には応じられないということを閣議で決めてしまって、その後一切裁判所の動きを無視。福岡高裁も含めた5つの裁判所が和解によって解決しろ、話し合いのテーブルに着けといっているのに、行政は一切これを無視してしまった。
私は、これは司法自体が行政追随の体質を自分たちでつくってきて、その結果として自縄自縛になっているのではないかという具合に思っています。そこから司法を国民の場に戻す作業がいま必要なのではなかいと思いますけれども、いずれにしましても、水俣病裁判の引金になったのは、言ってしまえば司法の判断を行政が徹底的に無視してきた。それは認定基準のところだけじゃなくて、和解の勧告のところもそうだし、あとで触れますが、最後の解決のところでも、環境庁の役人が最後にどう言ったかというと、裁判所へは死んでも絶対行きたくないと。裁判所を徹底して無視する動きを彼らはしてきたわけです。
裁判の位置づけ
私たちは水俣病の裁判を起こすときに、裁判の位置づけについて十分議論いたしました。これは判決で勝って、その勝った判決を基本にして国や企業との間で協定書、あるいは確認書を結んで解決していくという方式です。私たちはこれを「司法救済システム」といっているわけです。どうしてそういう具合に考えたかと言いますと、例えば、判決で勝って、それが確定しても医療費は出ないんです。年金は出ないんです。被害者の要求のなかで、補償の一時金は確かに―つの大きな柱です。しかし、それと同じぐらいの重さを持っているのは、医療費の要求であり、年金の要求なんです。判決でいくら高額の賠償金を取っても、逆に言えば高額の賠償金を取ればとるほど医療費や年金は当たらない。こういういまの法理論的な矛盾にぶつかるわけです。ですから、判決の主文には盛り込まれない被害者の要求を実現するために、勝訴判決を確定させることではなくて、判決をテコにした解決をするしかないのです。それが最終的に、今度の政府の解決策でどうなったかということですが、基本的には私たちの考え方を政府が受け入れたという具合に思っています。
世論を変えた大量提訴
この裁判を闘うにあたって、1つの大きな困難は、水俣病は既に終わったという世の中の認識が非常に強かったことです。何しろ昭和59年5月2日に東京地裁に提訴したときに、東京湾で水銀の汚染問題があったのかと言った人がいるわけですから。また新しい水俣病が東京湾で出たのかという具合に言った人がいるくらいに、熊本の水俣病の問題はとっくの昔の話だという具合にみんな思ってきていたわけです。そういう世論を変えなければ判決で勝つこともできないし、運動で勝利することもできないということから、私たちは原告の大量提訴を考えました。水俣病は終わっていないんだという事実を社会的に明らかにするためには、これだけたくさんの原告が救済を求めている、という事実を社会的に突きつけるしかなかったわけです。そのために大量集団提訴という方針を決めたのです。その大量の集団の原告を組織するのには、まさか委任状を持ってきたから全部原告にするというわけにもいかないわけで、医者の診断でスクリーニングを通さなければいけない。医者の診断をしてもらって、原告になってもらう。
この大量の原告を組織していくためには、本当に弁護団が苦労しました。東京では最終的に30名の患者しか、私たちの力不足で組織できなかったわけですけれども、昭和37年にチッソの大合理化が行なわれました。その大合理化が行なわれたのはチッソが石油化学に転換するために、その石油化学に転換した後、千葉県の五井工場に主力を移すための合理化だったわけです。いわゆる日窒闘争が起き、労働組合はとうとう第一組合と第二組合に分裂してしまいました。労働組合が分裂して水俣工場から大量の労働者が千葉の五井に移ってきた。その名簿を頼りに手紙を出して、いついつ五井工場の近くのどこそこで検診をやりますから来てくださいという宣伝やオルグもやりましたけれども、結果的には会社の圧力があったのかどうかは知りませんが、東京では30名しか組織できませんでした。しかし、その東京の30名を組織するのも実に大変な苦労だったのです。
被害の一番激しい現地の出水や水俣でも、そう簡単にすぐ委任状に名前を書いてくれなかった。弁護士が1軒、1軒患者の家を訪ねていって、医者のスクリーニングであなたは感覚障害があると、あなたは水俣病なのだから一緒に闘おうと、オルグをした。こうした弁護団の努力は、昨年9月号の『法律時報』の、京都の中島晃弁護士の論文で紹介されています。この論稿は、弁護士が依頼者を獲得するために勧誘をするのは弁護士倫理に反するのではないかという疑問にも答えて、反論しています。これは水俣病の弁護団の中でかなり議論をしました。私たちはオルグをやりました。それは人権を侵された人たちを放っておくことができなかったからです。
京都でも水俣病訴訟が提起されたのですが、京都に集中的に患者が移っているわけじゃない。京都は名古屋から広島までの区域に水俣湾周辺から移ってきた人たちを、京都の弁護団が組織したんです。ですから、これは大変な努力だった。もともと都会に移ってきている人たちはどこそこの誰それはどこにいるとか、お互いに情報網を持っている。しかし、そんな個人的な情報には限度がある。大量提訴なんかできないんです。そこで、つぎには現地のほうから、息子やおじさんはどこに移っているのかということを全部調べ上げて、そのリストをもらって手紙を出すという形で大量提訴の取り組みをやってきたわけです。水俣病の人権闘争で言えば、弁護士集団が優れたオルガナイザーになったということが言えるのではないか。
医師団の力も必要なことでした。全国から集まった100人の医者と看護婦の力をかりて、1088人の一斉検診をやった。これはとにかく滅法珍しい取組みだった。患者に検診を受けてもらって、感覚障害の認められる者を訴訟の原告に加えていく。そういう方針でやってきて、それでやっと原告が2000人になりました。
最終解決の段階で総数はいくらになるだろうかという議論がありました。私は司法救済システムのもとでは、5000プラスマイナス1割だろうと言い切ってきましたが、非常に私の読みが甘かったということです。救済対象は、なんと1万1000人になったんです。換言すれば、私たちは裁判闘争をやって2000人を組織して闘ってこういう成果を取ったけれども、9000人の人たちがまだその周りでこの人権闘争、裁判闘争に参加してきていなかったということに、私は反省させられる思いでいます。ともあれ、大量に原告団を組織していくというのは、世論を変えるうえでは非常に役に立ちました。
和解と解決
私たちは裁判所で「和解」によって解決しようなんて考えたことは1回もありません。話が述うんじゃないかと、こういう具合に思うかもしれません。私たちは「解決」をすると言ってきました。「和解」という言葉はどうしてもお互いに譲り合って、そしてどこかで妥協点を見出していく、こういう図式に考えられがちです。
確かにお金の問題については譲り合うことができるかもしれせまん。しかし、水俣病であるかないかという問題については譲ることはできないわけです。譲り合ったって中間の概念はないわけです。民事訴訟法には「和解」という言菓しかなく、「解決」という言葉がないので「和解」という言葉を使うけれども、私たちの真意は判決に基づいて「解決」をすることだと、終始一貫言い続けてきました。裁判所が和解勧告をしたときに、私たちはことさら解決勧告、解決勧告と言ってきました。譲り合って決めるのではなくて、判決のこれまでの考え方をべースにして、それで解決の確認書をつくろうじゃないかということです。
この場合には、訴訟で対立する争点についてどうやって解決の合意にたどりつくのかという問題が当然起きてきます。そのことを予想して、私たちは東京地裁が和解の勧告をする前に、熊本県やチッソとの間で議事録確認をしました。訴訟ではいろんな争点があります。水俣病かどうか、責任を担うかどうか、一時金を払うかどうか、どれくらい払うか、医療費はどうするか、そういう争点がいっばいあります。その争点については双方の主張と判決をもとにして、それを公正な第三者が調整した意見を出す。それで解決しようじゃないかということを提案をして、これを熊本県との間で議事録確認という形で決めました。争点についてはお互いに譲ることができないわけだから、公平な第三者が決める。それを元にして解決していく。私たちは判決でいけば必ず勝つ、こういう見通しがあったから公正な第三者というのは裁判所のことを考えていたわけです。したがって和解勧告が出てから裁判所の出す和解の案については、私たちは公正な第三者が出した所見だから、これをお互いに尊重して解決しようと訴え続け、運動してきたわけです。最終的には政府が解決をするかどうかという決断にまで焦点が絞られました。最終的な解決は、結局、連立与党が私たちの意見を入れて解決を決断し、政府もやむなく解決せざるを得なくなったのです。水俣病ではないと行政がいってきた、救済する必要がない、救済は終わっているんだ、もう何もやることはない、こういうことをいってき政府の方針をひっくり返したのです。解決策のなかに水俣病という三文字そのものは使っていないんですけれども、有機水銀と相関がある、偽患者ではない、有機水銀の影響を否定できない、つまり、水俣病と事実上認めて救済をするという形で連立与党が決めて、そして最終的な政府解決案になっていったわけです。
激烈な最終局面
政府の最終的な政策の転換を図るときの局面は激烈でした。連立与党といっても考え方が全部違うわけです。自民党は環境庁の言いなりです。当時の社会党は、私たちの立場を非常によく理解してくれた。だから村山内閣のもとでの連立与党のプロジェクト会議では、自民党と社会党が猛烈に議論をやった。私たちは社会党の議員の部屋で待機している。自民党の議員の部屋には環境庁が待機している。そして連立与党の会議が休憩に入ると、いまこういうことが論点になっている、どうするかと議論をする。ですから熊本日日新聞が、政府与党のプロジェクトチームにおける自民党と社会党の対立は環境庁と全国連の代理戦争だという具合にいった<らいなんです。最後の最後まで、実は救済するということが決まってから最後の最後まで揉めたのは、私たちは「裁判所で解決をする、これは絶対に譲れない。もしそれが駄目だというならば政府解決案は全部吹っ飛ばしてくれ」ということだったんですが、環境庁は、先ほどもちょっと言いましたが、「死んでも裁判所へは行きたくない」とがんばった。結局最後の折り合いのところが、訴訟をやっているグループについては裁判所で和解をする。訴訟をやっていないグループについては行政的な手続きで救済する。そういう形で決着した。
環境庁の抵抗は本当に最後の最後まで激しかった。環境庁は非常に露骨な嫌らしい話を随分社会党の議員にはしたようです。訴訟の場で解決をするということになると儲かるのは弁護士と医者だ。何でそんなことをやる必要があるんだということだとか……。本音は、弁護団や被害者や住民団体が主導して解決のルールをつくるということについては、環境庁としては絶対に譲るわけにいかないという思いだったんだろうと思います。
最終的な局面の段階では、誰を救済するかは裁判所が決めるべきだ。ちょどいまのHIVと同じ形式であり、スモン訴訟では経験済みの方式だったのですが、救済を希望する人は訴訟を起こして、裁判所がその書類を審査して救済をするかどうかを決めていく、ということを私たちは提案していた。環境庁は、裁判所には死んでも行かないという。それで結局2つに二分して、裁判をやっているグループは和解。そうでないグループは行政的な手続き。救済対象者の決定は、判定検討会というのは行政的なシステムで、振り分けをするということになった。連立与党の合意がおととしの6月だったのですが、国会の会期末近くなって、このままだったら水俣病の解決はお流れというところまでいったんです。そういう状況だったから政治解決は非常に困難ではないかという具合に思われてきていたわけですけれども、最後はやっばり闘いの力だったと思います。
具体的にはどういうことかと言いますと、おととしの5月下旬に、環境庁前で3日間ぶち抜きで「水俣スリーデーズトーク」というのをやりました。朝から晩まで3日間ぶち抜きで。これには法律家団体の方々もかなり出席していますし、学者、文化人も出席してみんないろんなスピーチをした。HIVの川田龍平君もあの集会に来て彼は涙を流して訴えている。初めて外へ出て闘うということの重要性を彼は自覚したという具合に聞いています。そういう3日ぶち抜きの環境庁前の大演説会をやりました。これでとどめを刺した。そして加藤紘一議員(自民党政調会長)が最後は、よしこれで行こうと決断する。訴訟をやっているグループについては和解で決めるというところで収めた。
4 人権と司法
私はそのプロセスを見て、とにかく裁判所は最高裁を頂点にしてこれまで行政追随の判決を出すなどの姿努を示してきた。しかし、行政はというと司法を全く無視しているじゃないか。例えば5つの裁判所の和解勧告をコケにされるなんていうのは、司法の権威失墜も甚だしい。結局自分たちがそういう種を蒔いてきてしまったのではないかという具合に思うわけです。そういう意味では、司法を行政追随からもう1回国民の立場に戻す。もしそれができていればあるいはもっと裁判でわれわれのほうがうまく解決できたかもしれない、そんな思いもちらちらいたします。
最後になりますけれども、期成会の政策の冒頭に、「耳慣れない法化社会という言菓が市民権を得ようとしている」と指摘されている。法化社会と弁護士活動については、京大の田中成明教授が『自由と正義』の昨年12月号にかなり詳しく書いています。私は田中教授の文章の中で非常に気になるところがあります。「評価が難しいのは最近では水俣病三次訴訟やHIV訴訟など、国を被告とする政策形成訴訟でも訴訟上の和解による解決が目立つようになっていることなどを見ると、この問題は今後の司法政策のあり方を論じるうえで極めて頂要だと思われる。」ここまではいいんです。そのあと、要するに田中教授は、裁判所でそういった問題を解決していくということになると、フォーマルな裁判所の判断とインフォーマルな当事者の交渉、これがうまく組み合わされなければいけない。ところが、「裁判官の過重負担、弁護士や当事者の能力不足などのため」に、本来、法に基づいて判決をするという訴訟の性質が変質してしまうのではないかというのを憂いているわけです。弁護士の中にもこのような方向を支持する意見も見られる、これは「“法的なるもの”の拡散と『法の支配』の核心部の空洞化がもたらされかねない」というのです。結論だけ言えば、私は、大量の集団訴訟で1つのルールをつくって、司法の場で司法の判断も借りながら、住民の要求に基づいて解決していく、それは行政の怠慢によって「空洞化している」法の支配を訴訟によって穴埋めしていく過程であると考えます。これは機会があったら弁護士として十分議論しなければいけない課題であると思います。
併せて、クラス・アクションについて私は必ずしも賛成しないということを言いました。確かに、大量に発生した被害者の人権を守るためには、全員について判決を取るということは不可能です。そうだとすると、誰でも考えることですけれども、判決のパターンがあって、お互いに司法判断を尊重して、それに甚づいて解決をしていく。当たり前の話だと思うんです。4大公害訴訟の歴史はそれをイタイイタイ病以来やってきたし、薬害のスモンでもそれをやってきた。HIVもいまそういう形で解決は進んでいっているわけです。そういう意味ではとにかく大量集団訴訟の処理については、私たちの中にはもう既に立派な経験がいっぱいあり、クラス・アクションを無限定に導入することは、百害あって一利なしと思っているのです。
『自由と正義』の昨年1月号に、私は、「人権と自治の開化を求めて」という小稿を書き、その中で、「縦柚と横軸」論に触れました。縦軸というのは人権闘争。横軸というのは国民的なニーズに応えた弁護士の活動です。これは要するに縦柚がきっちりしていないと、この横軸はどんなに拡がっても意味はない。コマが倒れてしまい、弁護士の自治がなくなり、日本の民主主義がなくなるという具合に私は思っています。縦袖の人権闘争というのは、冒頭に申し上げましたように、個々の具体的な人権闘争だけに歪曲して狭く考えるのではなくて、期成会の皆さんがこの政策に書かれているような、日本の司法の民主化とか開かれた司法、そういったものを目指す闘いもまた立派な人権闘争の基本的な柱になるんだと思っています。
随分長くなってしまいましたけれども、最後に裁判所の役割をどう考えるかということについて、日弁連の『自由と正義』なんかを読んでいますと、どうも紛争解決の処理、そこに重点が置かれているような気がする。早期に紛争を解決する。それも確かに、例えば手形の事件とか、借地借家の事件とか、それは早期に解決しなければならない問題もあるでしょう。しかし、例えば人権闘争だったら、私はそれなりに時間がかかっても、その中でみんながいろんな壁にぶつかって被害者や住民が成長していく、そのこともまた大事なことではないか。そういう意味では、裁判所の機能として紛争解決機能に重点をあまりにも置き過ぎてしまうと、人権運動の芽生えも摘まれてしまうのではないかと危惧します。まさにいろんな苦労の中で、長い闘いの歴史の中で、その実践を通じて被害者は人権感覚に目覚め、その人権運動が成長していくんだという具合に思うからです。
最後になりますけれども、人権闘争を担うものの人権、これはどう考えたらいいのか、言うことはやめます。(笑)
非常にまとまりのない話しになりましたけれども、期成会の皆さんの優れた政策闘争、人権闘争、それが今回私に人権賞を与えてくださった―つの大きな基盤になったということを感謝申し上げて、私の話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
意見交換
朝倉正幸(司会) あと予定している時間が30分ございますので、質疑、意見交換を随時させていただきたいというふうに思います。
それでは水俣病の弁護団長をしておられた斉藤一好先生が見えておりますので、口火を切っていただけますか。
斉藤 まず東弁人権賞おめでとうございます。ひと言、東京弁護士会にはまことに申し訳ない意見だと思うんですけれども、洛陽の紙価を高からしめるという古い言葉があるんです。今から2千年ぐらい前の昔の中国で、有名な詩人が『三都賦』という歌をつくったところが、それで印刷が非常に殺到して首都の洛陽の紙の値段が上がったという故事がありますけれども、私は東京弁護士会として公害問題で初めて人権賞を豊田弁護士にあげることになったということは、逆に言えば、東京弁護士会の人権賞の株がぐっと上がった、このために上がったと言ってもいいと思うんです。特にこの東京弁護士会の人権賞を契機にいたしまして、先ほど非常に感銘深いお話しをいただきましたけれども、このことがやはりわれわれ弁護士のこれからの人権闘争に対する大きな励ましになるというふうに思いまして、今度の豊田弁護士の受賞を非常に喜んでおります。
私は弁護団長の席を汚しておりましたし、豊田さんから見れば、ちょうど修習生としては10年先輩になるわけですけれども、一緒に闘ってきた立場としては、私が豊田弁護士のお弟子さん、そんなふうな思いでもって、あとをくっついてきたというふうな感じがいたします。そういう意味で非常に、特に先頭に立って被害者の中に入って、そしてそれこそ身を粉にして12年闘ってきたということを目の当たりにしておりますから、きょうのお話しも非常に感動を持って伺ってまいりました。それにしましても、やはり語り尽くせない、逆に言えば水俣病の闘いの中には、先ほどちらっと出ましたけれども、告発グループなどの、ああいう足を引っ張る運動もあったわけです。そういうものがあったりして、それを克服してきたということがありますから、やはりプラス面だけでなくてマイナス面がどこにあったかということもわれわれが反省してみる必要があると思います。
先ほど指摘されましたけれども、闘いが終わって実際にこれからこれを総括して、そして報告書をつくろうということでいま作業を進めておりまして、それが実際にはことしの5月1日を出版の目標にしてやっていますけれども、それが果してうまくどこまでできるかどうかわかりませんけれども、この作業も非常に大事だと思うんです。期成会の皆様方にお願いしたいことは、やはりわれわれの期成会の仲間で豊田さんのような素晴らしい人権の実践を果たされた方がここにいるわけですから、私たち大いに学んで、そしてこれから、いま非常に政治的な、あるいは社会的な、経済的な日本の情勢は非常に危機的な状況といわれておりますから、そういう意味ではこれを教訓にして大いに一緒に勉強し、かつ闘っていきたいと思うんです。
西嶋勝彦 1つは、尾崎弁護士の鹿児島400回余の話はとても信じられないことです。どういうふうにしてやってこれたのか。そこまでしなければ本当に解決はあり得なかったのか。もう1つは、豊田さん自身が、この解決の時期、中身について朧気に想定されていた時期、中身と解決の時期、中身とちがうのかどうか、最初から見通すのは無茶な話なんですけど、率直にお聞きしたい。3つめには、公害事件というのは疫学的手法を活用しなければどうしようもないということで、民事的にはそうでなければ科学論争の泥沼の中に入っちゃってどうしようもない。刑事事件では、民事の疫学的手法が使えるのか、違う見解があってもいいのか。環境庁の役人が確か2年ぐらい前に担当者が自殺して、彼はちょっと僕の個人的関係で知り合いだったものですから、差し支えない範囲でお話しいただきたい。彼が内面苦しんでいたことがあったのかどうか。
豊田 1番目の問題点については、尾崎弁護士に答えていただきます(笑)。弁護団会議では必ず情勢討議をやりました。ただ、必ず情勢討議をやっても、現地へ行ってきた部隊、あるいは環境庁と直接ぶつかった部隊、あるいは国会で直接やっている部隊の情勢判断と一般の弁護団との間で必ずしも認識は同じ重みではない。言葉は同じでも理解度は違ってくるということがあるんです。ですから、そういう意味では弁護団会議での議論が、おそらく形骸化したと見る人もあるいはいるかもしれません。何しろ私が覚えているのは、やがて解決するということをしきりに言っているのにちっとも解決しないものだから、また同じことを言っているのかという具合に、弁護団自身が斜めに見ていた時期もありますからね。ですから、そういう意味では本当は弁護団全体で民主的に討議して、尾崎君だけが4百何十回行かなくて、代わる代わるに行けばいいんだけれども、なかなか人的な代替性がないとか、人とのつながりがいろいろあるわけだから。そういう意味では十分議論したかといわれると必ずしもそうでない面もかなりあったのではないかという感じがします。
2番目の、解決の時期、中身の食い違い。これは解決の時期については完全に狂いました。何しろ、最初スモンから弁護団を集めてみんなでやろうといったときには、3年で解決するといったのですから。3年で解決するといったのはなぜかというと、水俣病については2次訴訟で既に判決が出て勝っているわけですからね。どこでもやれば同じような判決が出るだろう。そうすると、われわれのほうも短期決戦でいけるんじゃないか。そういうことでせいぜい主張1年、立証1年、判決・解決に1年としても3年といったんですが、これが総スカンを食いましてね、みんなから。お前に騙されたと。そこで、何年とかいう数字を出さないで、桜の花の咲くころにはとか(笑)。毎年1月の5日か6日に全国連の総会を水俣でやるんです。ことしの桜の花の咲くころには絶対解決する。解決しなければならないとやるわけです。桜の花が散ってもちっとも解決しない(笑)。何年後の桜の花の咲く時期かという、こういう椰楡した質問が返ってくる。しかし、判決では病像論で勝っている。そうすると、国の貢任では、勝つ場合もあるし負けるかもしれない。ただ、チッソの責任は争う余地がない。国だって責任がないとは誰も言わないわけですから、解決はそう難しい先ではないという具合に思っていたんです。それが細川内閣ができて、細川熊本県知事が日本新党を引き連れて総理になったときに、被害者の人たちはこれで解決だと思った。だって熊本県知事のときには、要するに機関委任事務を返上しても国と闘うと言った知事ですからね。みんなそう信じ込んだんです。ところが、細川内閣になって、プロジェクトチームはできたけれどもどんどん難しくなりました。村山内閣になったときに、私どもは逆にどんな内閣でも自分たちが闘って解決をするという方針を決めたのです。細川だから解決の情勢が生まれたとか、村山だから解決の情勢が生まれたという判断はやめようと。自民党の内閣であってもわれわれは解決するんだ。そういう闘いをわれわれは組む必要があると意思統一をしました。いかなる内閣であっても必ず勝つ、解決するということに言葉を置き換えていったんです。
結局、なぜ難しかったかというと、昭和53年に関係閣僚会議で水俣病の方針を政府が決めていたからです。患者切り捨ての方針も、チッソに対する金融支援策も。それは私たちも知っていました。本で読んで字面の上では知っていました。実際にぶつかってみると、結局向こうは閣議が後ろにあるわけです。だから環境庁の悪口は私さっき随分言いましたが、環境庁は、だって53年の閣議があるんですから閣議を変えるわけにはいきません、こういう考え方なんです。ですから、3年が5年になり、桜の花の咲くころという話は、何回も桜が咲いては散り、咲いては散ってしまった。細川が生まれて近づいたとみんなが思ったけれども、結局最後は自分たちが闘うしかないということになったんです。最後の年は本当にすごかったですね。首相官邸前などの座り込みを100回ぐらいやりました。それから「首相直訴」。巻紙に首相直訴状を書いてきて首相官邸前で読む。それでもうんともすんとも言わないから、今度は「連判直訴」ということで各地の原告団が全部判子を押して、これを首相官邸前で読み上げながら、それで座り込みをやる。そのことによって、結局社会党議員も、いろんな中傷誹謗を受けながらも、人道問題だからということで、頑張ったんです。連立与党を動かしたのが被害者の運動だった。被害者の運動が政府に最終的には解決を迫ったということだと思います。時期的には本当に狂ってしまいました。12年。だから3年から見ると9年も長く、楽しく運動をさせてもらったことになるのです。
中身の問題で言えば、責任の問題と病像の問題と補償の内容の問題といろいろあるんですけれども、私は責任の問題についていえば、マスコミのなかには国の責任を和解条項の中に書かせずに訴えを取り下げてしまった、これは国の責任の追及を放棄したものではないかという議論があります。しかし、私どもは総理大臣が初めて謝罪をして、しかもその謝罪の文章は閣議決定の文書です。いまだかつてないことです。スモンのときだって橋本龍太郎厚生大臣が、確認書の調印のときに来て頭を下げただけですよ。HIVのときには菅直人厚相は確かに患者に言われて、非常に深々と頭を下げた。その後彼はいろいろやったけれども、しかし、閣議決定で謝罪文をつくって謝罪したというのは、この国の人権闘争では初めてのことだから、そういう意味では謝罪はきちんとしている。責任の取り方の問題として、国はどんな買任を取るべきなのか。金を払うべきなのかという問題が当然出てくるわけです。和解調書上の責任を問うとすれば、国が当事者として金を払うということを示さなければいけない。これをめぐって、これだけあくどいチッソに国が肩代わりして金を払う必要があるのか。国民の税金を使う必要があるのかという議論もありました。したがって私どもとしては、国が潰れかかったチッソ、いまチッソは1500億の借財を抱えて吹けば飛ぶような状態です。まさにいまは国営会社ですよ。そのチッソにさらに追加の約260億の金を出して、また最近50億だして、300億を超える金を出して、これを補償の原資にさせたということは国が自ら責任を取ったのと同じことではないか。そして、一番張本人のチッソにはとことんこの金は国に返させていく。こういう仕組みを取った。
和解調書の中に、字面上責任を取るということを書かせた歴史は、サリドマイドに始まります。スモンがそうです。しかし、サリドマイドで国は謝罪するといって書いた、スモンでも謝罪するといって書いた、再び薬害を起こさないという決意をサリドマイドでもスモンでも表明したけれども、結局また、HIVを起こしてしまった。そういう意味では、和解条項の中に謝罪の文章をどれだけ美辞麗句を載せるかという問題ではなくて、その闘いを契機にして本当に官僚の体質や仕組みをどうわれわれが変えていくのかということにつながってこなければ、本当の意味での国の責任の取らせ方にはならないのではないかという具合に思っています。
補償の問題について言えば、260万円というのは、さっき言ったように非常に低い金額です。しかし団体加算金38億円が出ておりまして、これは一人頭に直しますと190万で、トータルで450万。450万というのは福岡高裁が和解として提示した400万と、東京地裁の判決の350万を超えているわけです。そこは評価の問題になってきて、金が多いとか少ないとかというところであまり議論するのは、私たちはやりたくない。逆に一時金は確かに少ないかもしれないけれども、医療費と月々の療養手当てがきっちり制度的に確立することができた、それを勝ち取ったという点で、むしろ補償の内容については一時金は少ないけれども、仕組みとしてはいいものを勝ち取ったのではないか。
刑事分野における疫学の問題については、前に日弁連の人権委員会からも日本の公害訴訟における疫学の問題について聞かれたことがあります。そのときも答えたんですけれども、私は刑事の疫学と民事の疫学は違っていいと思う。千葉のチフスの事件というのは、そういう意味ではおかしいと思うんです。民事では誰が賠償を担うかという公平の観点から疫学的手法を使って絞り込んでいくわけです。それで因果関係を決めていくわけです。刑事の場合には疑わしきは罰せずという大原則があるわけですから、間接事実で埋めていってそれで事実を認定する場合もありますけれども、それはかなりのシビアなものでなければいけないだろうという具合に思いますので、刑事の疫学と民事の疫学というのは、私は違って当然と思います。
最後に山内局長の死亡の話ですけれども、水俣から福岡へ移動する特急電車の中へ突然電話が入って、「豊田さんがいたら直ちに電話口に出てください」と呼び出された。電話を取ったら大変なことが起きたんだと知らされました。ちょうど北川石松環境庁長官が水俣へ行っている日なんです。私も水俣へ行ってその特急で帰ってくる汽車の中で車内電話で呼び出され、そして自殺したという話を聞きました。率直に言って、私ども山内さんと話し合ったことは1回もありません。会ってくれなかったんですから。ただ、いろいろ人脈だとか官僚の図式から考えると、あの人は非常に良心的で、この機会に何らかの形で解決をしたいと考えていたようです。中身はわかりませんが。解決しようという方向で、どうも山内さんは動こうとしたんだけれども、なかなか賛同を得られなくてああいう不幸な事態になってしまったという具合に聞いています。その後彼についての本が出ていますけれども、どちらかというと早期に解決をしたほうがいいという立場にあったと書かれています。
朝倉 どうして生活を支えていたかと、そのヘんのところも含めて、私の聞きたいところなんだけれども、何で食べているのかわからないぐらいなんですよ、同じ弁護団の中で。それをちょっとそのへんも含めてちょっと話しをして。
尾崎俊之 確かに後の人が同じことがやれるかという目で自分のことを理解してみても、自分も奇跡的にやれたんだというふうに思っています。ともかく自前でもってやるわけですから、いまが生きていかれなかったらやりたいこともやれない。だから仕事はちゃんとやりました。生活ができるだけの収入があったから行けたんです。ただし、家族に迷惑かけたことを含めて、低空飛行かすかすのところですね。そういう意味で、正直言って貯金というのは1銭もありません。だけど、たまたま運良く10年間ずっと同じレベルの生活ができたからやってこれた。自分としてはやって良かったと本当に思っています。それは何でかというと、豊田さんの話しがバックにあるのでおわかりいただきやすいと思うんですけれども、この運動はこの裁判の闘争は確実に前進し続けたと思うんです。自分自身がいまの時期、ここまで来れたということに、なるほどこれだけ頑張ったからここまで来れたんだという確信が持てる、常にそういうことの繰り返しで、前へ出れば出るほどいろんな新しい局面に、自分が首を突っ込めば突っ込むほど、そこで自分がなにがしのことが少しでもやれて、それによって少しでも物事が動くという一番いい経験ができるという意味では、こんな楽しいことはない。だから、苦しいと思ったことは一度もありません。とにかく楽しくて楽しくて、だからまた次も行きたくなるという、そういういい瞬間の繰り返しだったと思うんです。
それともう―つは、そこでつき合うことになった原告、支援の人、あるいは熊本県の職員、こういうありとあらゆる人との間で、それなりの人間関係ができて、それがまた楽しくて。それは確かに距離を置かなければならない人たちもいるけれども、その中でもそういうつき合いが楽しい。そういう意味では本当に幅の広いおつき合いをすることができた。それが全部自分の財産になっているなというふうに思うんです。ですから、水俣病は終わったといわれているんですけれども、私はこれで出水とは別れちゃうというようなことができない。原告の人が新しい被害者の会をつくって全国組織を1月25日に旗揚げしました。いま獲得した月々の手当てなどを絶対に失ってはいけないということを、これからも、今までの闘いを生かしてきちっと政府に訴えかけていきたいと、そういう被害者の人たちの心意気があって、そういうことのために世話人たちが集まる機会があれば、私は出かけていくつもりです。本当にいい出会いがあったと思います。
(会員) いろんな考えの人が支援者の中にいたと思うんですけれども、本当に頼りになったのは。あとマスコミではいろんな中傷もあったと思うんです。あるいは世論がずっと動くと好意的だけれども、そうでないと冷たいとか。
鈴木尭博 水俣病について支援した人というのは本当にいろんな分野、そして人数もおそらく大変な人数の人たちが水俣病の解決のために何らかの関わり、貢献をしたんじゃないかと思います。最初、弁護団が特に東京の弁護団が訴訟を東京地裁に起こすということで、まず東京で支援をしてもらうにはどうしたらいいかと、弁護団でいろいろ検討したんです。それまでスモンの裁判をやってきて、スモンの解決も厚生省に対する国民的な世論を背景に闘ったという運動的な要索が強かったですから、スモンの場合には労働組合、東京のいろんな区に区労協というのがあり、そういうところを基盤にしながら、総評も解決の中心を担う、支援実行委貝会というのをつくったわけです。そういうスモンの運動に関わった人たちに、水俣病の場合もまずやってもらおうということで取り組んだ。私たちが取り組んだ水俣病の段階になると、労働組合では連合が生まれて、労働組合の大きな流れが分かれていったという非常に状況として厳しくなっていき、水俣病についてまず動いてくれたのは、スモンで実際に患者の家に行ったり、厚生省前に何日も続けて行ったり、そういうふうに足を本当に使って動いてくれた人たち。その人たちにまず現場を見てほしいということで、現地調査というものが行なわれました。毎年8月に現地調査をやっていきましたが、東京から最初は50何人で、50人がやがて百数十人規模になる。毎年行くとその人たちがまた東京に戻ってきたら自分の職場やいろんなつながりの人たちに、人権問題だし自分たちの問題でもあるということで、それがいろんなところに反映する。おそらく現地に現地調査で行ったのは延べで1000人ぐらいになるんですかね。その人たちがまた一生懸命活動するということで、その周りの人たち、1人の人が10人に訴えるとたちまち1万人から数万人というくらいになるわけです。その運動の主力を担ったのは労働組合からさらに消費者・市民団体、それと朝倉弁護士が中心になったけれども、学者、文化人というふうにだんだん層が拡がっていった。
例えば水俣病のビラまきを東京でやると、どこがいいか、一番効率的にやるのは大団地というので、数万人が住んでいる団地にビラまきを、ビラまきといっても1軒、1軒ノックしてビラを渡しながら話し込むという、それで署名をしてもらう、あるいはカンパをもらう。そういう中で団地の中でも自治会を中心に支援者がひろがる。人間のつながりがだんだん増えていった。水俣病というのは誰でも知っているんですね。小学校の教科書から中学の教科書でも書かれている。しかし、もうとっくに終わっていたはずだと。それがなぜまだ解決していないのか。そこでみんな水俣病に関心を持って、またこれは決して人ごとじゃなくて自分たちの食卓に載る食べ物の中にだって有害物質が入ってくるかもしれない、ということで支援者が拡がってきました。そして運動としてかなり大きな力を発揮したのは、自治体の署名、自治体首長の署名。これは全国の都道府県知事が水俣病の早期解決を求める意見書を国に対して出すという運動です。日本の総人口の過半数を超える自治体の首長、東京都知事ももちろんですけれども、首長が意見書を出した。熊本ではすべての市町村の首長が意見書を出した。そういうことで各自治体も含めると水俣病の解決に役立ったような支援というのは、莫大な規模のものであるというふうに思います。
マスコミ対策も確かに当初はマスコミのほうから、東京の運動については特に熊本のある新聞社なんかは、必ずしも東京の動きを温かく見てはいなかった。そのマスコミが国民の運動として大きく発展してくるにつれて、水俣病の記事をいろんな機会に出す。スモンのときよりもずっと水俣病の記事が増えていった。実感としてわかっていった。それが一番大きかったのは、各裁判所で和解勧告を出しました。その和解勧告に基づいて国はその勧告を踏まえて解決すべきだという論調の社説がほとんどすべて、地方紙も含めてほとんどすべての新聞に掲載された。
社説やいろんな論説、記事、新聞やテレビなんかでの解決に向けての報道は、大変役に立ったと思います。
朝倉 ありがとうございました。水俣病を語るときには水俣病の支援の運動が、不可欠だということです。水俣病の関係者、弁護団、元の大変苦労した事務局の方々が見えていますので、ちょっとお立ちいただけませんか。(拍手)
こういう方々が水俣病の運動を支えてきたということです。どうもありがとうございます。今後も水俣病の弁護団はいろんな形で水俣病の教訓を生かして頑張っていくということですので、最後に拍手で激励をしていただければと思います。きょうの豊田先生の講演会をこれでお開きにさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
(期成会『Wa』1996年第4号所収)