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「最高裁判所での3年6カ月を振り返って」

2012年7月27日
小田急山のホテル

       元最高裁判所判事
        宮 川 光 治
        (20期)

司会 (三森敏明会員)

本日、宮川先生には、「最高裁判所での3年6カ月を振り返って」ということでご講演いただきます。先生からは大変貴重なお話、そして、今後、われわれが執務を行うにあたって大変有意義なお話が伺えると思います。 

 では、先生、よろしくお願いします。

講演

 宮川です。

 さて、今日の話については、企画者の方からの注文に従い柱を立て、いわば座談のようなかたちで、人間の集団としての最高裁判所を浮かび上がらせたいと思います。

 なお、退任後も課せられる、また、守らなければならない守秘義務がありますので、そのことは承知していただきたいと思います。

 

1 最高裁判事に選ばれるまで

 最高裁判事の候補者選びは、1年ほど前から始まります。平成20年当時は、弁護士会枠というのが厳然としてありました。弁護士出身の判事は4人、東弁(東京弁護士会)、一弁(第一東京弁護士会)、二弁(第二東京弁護士会)、大阪弁護士会から各1名が選ばれるという状態がずっと続いていました。それぞれの会出身の判事が退任したときには、その弁護士会からの候補者の中から選ばれるということが確立していました。

 東弁出身の才口千晴判事が2008年9月2日に退任されるということで、次は当然、東京弁護士会の番だということで、東弁では私を含め、7名の立候補がありました。実は私は迷い、期成会の主だった方々に相談しておりました。候補として名が上がっている人の中に、親しい友人が居り、しかも彼はまさに適任でしたので、応援する側に回ろうとも考えていたのです。しかし、いろいろな方々から、「立つべきである。期成会らしい候補者としては、あなたがいいのだ」と強く勧められました。本当に最後の最後まで迷いに迷いましたが、決断をして、2007年11月に、東京弁護士会に候補者として届け出たのです。誠にありがたいことに、期成会のみならず、法友会の先輩の方々も推薦人になってくださいました。

 東弁での推薦委員会主催の公開による所信を聞く会があり、そこでは順位1位であったと聞きましたが、東京弁護士会から日弁連に対して5人を推薦することになりました。そして、他会の候補者を加えて、日弁連の推薦委員会での所信を聞く会があり、その会での秘密投票の結果に基づき、宮﨑日弁連会長(当時)が最高裁に推薦行為を行ったのは、2008年5月初めのことでした。1人につき4人以上を推薦するということが最高裁から求められています。会長は順位を付けて推薦されたと思います。もっとも、最高裁は、独自の調査に基づいて最高裁が考える適任者を選ぶわけですから、この順位に拘束力があるわけではありません。近年も、日弁連が付した順位通りでない選任が行われていると聞いています。

 その後、何の連絡もなく日々が過ぎて、2008年8月4日月曜日、クレオで辻誠先生のお別れ会がありました。そのパーティーに出ていたら、最高裁から連絡があり、電話をかけると、大谷直人人事局長から、「明日の閣議で最高裁判事に就任することが了承される予定で、本日、長官が福田(康夫)総理の了解を得ました」という説明がありました。会場に戻ると、ちょうど宮﨑会長の携帯にも電話が入り、宮﨑さんがそれを聞いて、私のほうを見て会釈をしたので、宮﨑さんのところにも同じ連絡が入ったことがわかりました。これが、事実上決まったことがわかった瞬間です。

 それから1カ月間が大変でした。身辺整理をすべて終え、9月3日、車が迎えに来て最高裁を訪れると、長官室で島田仁郎長官と大谷(剛彦)事務総長(いずれも当時)が待っておられました。そのときの島田長官の言葉を忘れることができません。「最高裁としてお待ち申しておりました。」「弁護士会の信頼が絶大であり、この人をおいてないと考えました。法曹養成に尽くされてきたことは、かねて敬服しております。私の同志とも思っております。」 島田長官の人柄もあり、とても暖かなものが伝わり、胸に熱く込み上げてくるものがありました。

 振り返ると、期成会から民事弁護教官に推薦されて立候補したことがありますが、最初に立候補したときは選ばれませんでした。歴史を振り返ると、弁護教官は、期成会から優れた人が数多く推薦されていますが、6期の宮原守男先生が刑事弁護教官に選任された以外はすべて選ばれませんでした。一人一人の方々が、三度、二度と挑戦されましたが、門が開くことはなかったのです。冷戦時代、期成会は弁護士会内左翼であるという見方が根強くあり、最高裁では警戒感が払拭できなかったのだと思います。私は挑戦された先輩の位牌を引き継ぐような思いで、三度挑戦すると腹を決めていました。永遠のリレーです。二度目の折、その頃委員会で親しくさせていただいていた故大野正男先生が、「宮川くん、1回や2回で教官として採用されるというのは小物だ。俺のように3回戦やらないとだめだ」と言って下さいました。大野先生は、第二東京弁護士会の強い後押しがあり、刑事弁護教官に三度目の挑戦で選任され、卓越した教官として、活躍された方です。「しかし、よし、掛け合ってあげよう」と司法研修所に、実際、掛け合ってくださいました。もう1人東京弁護士会法友会の故橋元四郎平先生が、最高裁に話をすると言ってくださいました。橋元先生が東弁の司法修習委員長であったときに、私が副委員長となり、以来ずっと親しくお付き合いをいただいていますが、当時、北山六郎日弁連会長の下での事務総長の勤めを終えられたその年のことです。実際、橋元先生は最高裁を説得してくださいました。このように、私は、素晴らしい方々の援助を得て、2回目の挑戦で民事弁護教官になることができました。3年間、事務所の仕事は、並木政一さん、古谷和久さん、高橋鉄さん達に委せ、教官の仕事を真剣に務め上げました。教官としては、修習生からも、研修所からも評価を得たと思います。

 のちに司法改革の頃、新司法試験のもとでの新しい修習制度を作るということで、最高裁に司法修習委員会が新たに設けられることになり、12人の委員のうちの1人を日弁連から出すことになりました。日弁連は、当初、日弁連司法修習委員長等を推薦する予定でしたが、ある日、当時の日弁連会長から最高裁では宮川先生の名前が挙がっているので、引き受けて戴けないかとの連絡があり、お引き受けすることとなりました。約3年間でしたでしょうか、意見を積極的に述べ、ペーパーを提出する等、委員の仕事を誠実にこなしました。そして、今度、最高裁判事になられた大橋(正春)さんにバトンタッチしました。

 法科大学院制度や新しい懲戒委員会等の司法改革に努力したことが評価されたということが言われていると聞いたことがありますが、司法修習をめぐるこうした長い地道な活動が信頼を得て、最高裁判事に就任できた契機のひとつとなっていることは間違いないと思います。

2 最高裁判事とは  スタートの頃・日常・経済生活もろもろ

 さて、島田長官の言葉で気持ちのいいスタートが切れ、正直、これは頑張らなければいけないと思い、また、任期が短いこともあり、最初からスパートして、最後まで疾走しようと心に決めました。

 通常は、就任後、調査官室や事務総局から説明を受けたり、資料を読んだり、勉強したりと、審議に参加するまでに1カ月近くの待機期間があります。ちょうどそのとき、第一小法廷で、元社会保険庁の長官だった横尾(和子)裁判官が任期を残して退官され、3人構成となるので、急遽、審議に加わることとなりました。9月3日に就任して、挨拶回りを済ませたと思ったら、5日には審議資料が判事室に届き、9月11日午後の審議から参加しました。調査官報告書、判例・文献、1審判決、2審判決、上告関係の書面が1つづりとなっています。この最初の事件は、民事事件で請負代金請求訴訟。調査官の報告書の結論は上告棄却でした。読むと、清算関係に関し、問題がありこれは破棄事案ではないかと考えていたところ、8日、主任の泉裁判官作成の審議の際の説明用メモが届きました。12頁の周到なメモで、原判決には相殺抗弁に関する判断の逸脱があり、破棄差し戻すとともに、担保を立てさせないで執行停止をするのが相当であるという結論でした。同日、今度は涌井裁判官の1頁の意見メモが届き、理由に「食違い」があり、上告理由は理由があるという意見でした。なるほど、審議前に、こういう風に自分の意見をまとめ、配るのかと理解し、学ぶところがありました。私も2頁の意見メモをまとめ、11日の朝、調査官を通じて配布してもらいました。審議の結果、全員一致で、調査官報告書とは異なり、破棄判決となり、12月に弁論を開き、1月に判決をすることとなりました。この事件は、特段先例価値があるわけでもないので、判例集等に登載されていませんが、泉、涌井両裁判官の議論にプロ裁判官の厳しさを感じ、大いに学び、また審議の作法を会得したという意味で、印象に残っています。これ以降、私は、審議事件のひとつひとつについて、自分の意見をペーパーにまとめ、必要に応じて、意見メモとして他の裁判官に配布することとしました。この習慣は、最後の事件まで続きました。

 私の最初の個別意見は、警察官が私費で購入したノートに記載し、一時自宅に持ち帰っていた関係者の取り調メモについて、証拠開示を命じた判断を是認した事件(平成20年9月30日決定・刑集62巻8号2753頁)です。この事件は、特別抗告事件で、早く決定しなければならなかった事案です。9月10日に大部の調査官報告書・事件記録の写し、参考文献・参考判例等の資料が届き、9月18日に審議することになりました。驚いたのは、審議の2、3日前に主任の涌井裁判官の11頁にわたる説明用メモが届いたと思うと、泉さんのメモが届き、検察官出身の甲斐中裁判官の涌井・泉意見対する反対意見メモが17日には届くという展開です。私は、配布するに値するような意見メモを即座に用意することはできず、18日の審議に参加しました。審議の結果は3対1でした。そして、当日、決定理由案を審議の場で完成させました。甲斐中さんの反対意見が22日に配布されました。これを読んで、私は、弁護士として多数意見の立場から反駁する必要を感じ、意見をその日のうちに書き上げ、涌井さん、泉さんの了解を得て、補足意見として決定に付しました。この決定はリーディングケースとして機能していますが、実に短期間のうちに生み出されたもので、3人の同僚裁判官の力量を感じ、議論の楽しさ、議論では対立することがあるが、その後の爽やかさは、実に良いものだと思ったものです。

 さて、裁判官生活の実情については「Wa」(2012年№1-36頁)のインタビュー記事に書かれていますし、恐らく、東京弁護士会の会報の「LIBRA」6月号の記事も読んでいただいていると思いますから省略します。

 私はオンとオフの切り替えがうまいほうで、激務ではありましたけれども、人間的な生活を送ったと思います。日々を楽しむ、音楽を聞いたり、小説を読んだり、そういう人間的な時間を持っていないとよい判断はできないと思います。私は疾走しましたが、リズム良く走ることができた3年6カ月であったと思います。

 したがって、裁判官生活のストレスはありませんでした。もっとも、いわゆる君が代訴訟と光市母子殺害事件の二つの事件では、孤立感を感じたことがあり、事件そのものから来るストレスもありました。それは、真剣に取り組んでいる以上、多かれ少なかれ避けられないことで、いたしかたないことであったと思います。今、振り返ると、誠に楽しい、充実した日々であり、人生のひととき、そういう日々を送れたということについては、人生の幸福を感ずるとともに、選んで下さった方々、さらには同僚裁判官やサポートしてくれた人たち、感謝しています。

 ◇

 裁判官の「経済生活」を知りたいとのことですので、その一端をお知らせしておくと、俸給は国務大臣と同じですが、いろいろと引かれて、手取りではかなり少なくなります。これを多いと見るか少ないと見るか評価は分かれるところだと思いますが、超激務であること、これ以外には全く何もないことを考慮すると、多いとは言えないのではないでしょうか。しかし、生活するには不足はありません。ところが、「3・11」のあとの菅内閣の方針で、内閣総理大臣と国務大臣は2年間30%を返上することになり、最高裁判事もそれに倣うことになって、現在はそういう状態ですから、現在の最高裁判事はなかなかに大変だと思います。退職金については、財務省の圧力もあって、数年前に3分の1に減らされました。私は減額後の適用ですので、受領額は900万円程度でした。

年金はどうかというと、30万円程度です。月額ではありません。年額です。弁護士に戻っても、訴訟や紛争事件の代理人になることは好ましくないと言われており、事件は受任していません。かつての顧問先や依頼者との関係は、浦島太郎のような状態でしょうか。このようなことで、弁護士から最高裁判事となることは、経済的には決してお薦めできません。しかし、司法研修所の教官と同じで、そうしたことには代えられない喜びや生きがい、とりわけ法の発展にかかわっているという充実感を得ることができることは確かです。

 宮中、そして宮内庁との関係についても実情を知りたいということですので、少し、お話しします。藤田元裁判官の最近の『回想録』に、実に詳しく書かれています。一言で言うと、関係は深くて密であるということです。これは、私にとって驚いたことの1つです。宮内庁長官のお話では、現陛下は、三権の中で司法との関係を最も重きにしておられるということで、体調を崩すほどの超多忙の中でも、最高裁との関係での行事は、減らさないようにされていることが分かります。

 いったい1年間でどのような行事があるかというと、まず、新年の1月1日には妻同伴で新年のご挨拶に伺います。これは全国八高裁長官も一緒に行きます。1月には講書始(の儀)、これは陛下が3人の学者たちから年初の講義を受けられるのに順番に立ち会います。さらに歌会始(の儀)、1月の終わりにはカモ猟のご招待があります。

 5月には春の園遊会、春季皇霊祭に立ち会います。秋になると秋季皇霊祭、秋の園遊会があり、新嘗祭があります。そして、午餐会と言って、最高裁判事と高裁長官だけを特別に招待され、フランス料理と素晴らしいワインを、見事な給仕を受けてごちそうになり、懇談をして下さるという会があります。天皇誕生日、それ以外に、長官と代行は晩餐会やお見送りなどがあります。

 そして、年1回、宮内庁の長官以下十数人の方々を、最高裁長官の公邸、あるいは最高裁の特別会議室という名前のパーティーホールに招待して接待します。そのときは、最高裁判事全員が接待役を務めます。

 このように強い関係があり、最高裁判事はまさにエスタブリッシュメント、つまり、権威の中に一員として組み込まれているのであり、一般の判事とは別次元の存在であるということが分かります。そのことが、最高裁判事の心情や意識に影響しないことはないでしょう。

 私自身のことを述懐すると、私は、最高裁入りするまでは、天皇家のことには特段の関心はありませんでした。しかし、天皇と皇后両陛下を、深く尊敬するようになりました。尋常ではないお仕事ぶりであり、特に「3・11」直後の行動を見ると、わが国の国民の統合としての象徴である存在として、見事に務められていると感服します。園部逸夫元最高裁判事の『皇室制度を考える』という著書を買い求め、読むということなど、最高裁入りがなければあり得なかったでしょう。私以外の方々についても、心情を揺さぶられるものが、裁判官生活の中であるのではないかと思います。

3 最高裁の構成と調査官組織について

 さて、最高裁の構成は、ご承知のように裁判部門と司法行政部門に分かれています。裁判部門は、大法廷と三つの小法廷がありますが、それぞれに事務官や書記官たちがたくさんいます。

 大法廷事件は常に1件あるかないかという状況ですので、大法廷関係の職員たち、暇であろうと思います。一方、小法廷の書記官たちは本当に忙しいのです。判決について、何人も回し読みをして、誤字脱字、記録に照らし合わせて引用のミスがないかをチェックしています。裁判官がチェックし、調査官がチェックしたあとに、なお書記官が、細かいところですが、ミスを見つけ出してきます。そういう意味では完璧なものに仕上げられているのですが、小法廷書記官の役割は大きいものがあるでしょう。

 司法行政部門は7局3課があり、7局は、総務局、人事局、経理局、民事局、刑事局、行政局、家庭局。3課が、秘書課、広報課、情報政策課です。

 人事局が重要な局として位置づけられているのは間違いないでしょう。非常に優秀な裁判官が人事課長・人事局長を担っています。私のときは大谷直人人事局長でしたが、大谷さんはその後、静岡地裁所長となり、今度事務総長として最高裁に戻られました。今度名古屋高裁長官となった山崎敏充事務総長も人事局長でした。人事局長→事務総長→高裁長官→最高裁判事というのが、確立したルートであるとよく書かれますが、実際に見て、そうであると感じました。

 裁判所の中で、誰が最高裁判事となるかは、短期的には予想がつきますが、中期的にもしっかりと考えられているのではないかと思われます。わが国司法の安定と隆盛を考えるのであれば、当然のことでもありますが、そういう世界です。

さて、最高裁庁舎では約2000人の職員が働いているといわれていますが、その大半は事務総局職員です。日弁連も大きな充実した組織となってきましたが、到底、太刀打ちできないスケールです。そのような最高裁と対等に渡り合い、協議し、協働するためには、しっかりした、そして成熟した執行部が必要です。そいう意味で近年の日弁連執行部の動向には、最高裁にいて、危うさを感じておりました。

 ◇

 さて、裁判部門には調査官室があります。私がいたときには調査官は37人で、首席調査官、さらに、民事と刑事と行政の三部に分かれていて、それぞれ上席調査官がいて、その下に、民事17人、行政9人、刑事10人の一般の調査官がいました。

 私が退任した直後に、民事が1人増えました。今は38人です。平成元年から長い間、調査官室は総勢29人でしたが、8名増えました。増えたのは、民事が4人、行政4人、刑事は変わらずという状況です。首席調査官は、終わると必ず高裁長官になるというレベルの人が担っています。過去の首席調査官は7人連続して最高裁判事になっています。3人の上席の人たちは、退任後は必ず地裁の所長になるというレベルの人たちです。

 最高裁の事務総局員とか調査官には、いったいどういう人たちがなるのかということです。私は教官として42期の後期から45期の前期までを担当しましたが、クラスの任官者のトップ3人が、どちらかになっています。事務総局に入るか調査官に入るかは人それぞれで、個性に従い選ばれていると感じます。つまり、そういうエリートを裁判所の中核として育てていくことに関しては、最高裁という組織は、人材登用・養成のシステムが確立していて見事なものだと思います。弁護士の世界はそうはいきませんが、しかし、よい意味での日弁連官僚というものを養成していくことが必要であり、学ばなければなりませんね。

 

4 私がいた当時の第一小法廷の同僚たち

 横尾裁判官は行政官出身で、すぐ退任しました。泉徳治さんは、最高裁人事局長から事務総長、東京高裁長官、最高裁判事になったというエリート中のエリートです。明敏で、かつリベラルな方で、反対意見をたくさん書かれ、在任6年8カ月の間に25件書かれたとのことです。信じられないような数字ですね。その泉さんとは、残念ながら4カ月しかご一緒できませんでした。亡くなった涌井裁判官とは1年少し一緒でした。検察官出身の甲斐中(辰夫)さんとも1年数カ月、そして、櫻井(龍子)さん、金築(誠志)さん、横田(尤孝)さん、白木(勇)さんという方々と仕事をしました。

 涌井裁判官は優れた理論家で、非常にオーソドックスな法律理論を展開されます。伝統的な行政法理論の理論家でもあった方です。私は、涌井裁判官の仕事ぶりと緻密な法律論から最も多くを学びました。1年余の間に、涌井裁判官と意見が対立したことが少なくありませんでしたが、涌井さんとの議論は、刺激的で楽しいものでした。

 甲斐中さんはまさに練達の検察官ですが、柔軟で懐が深く、先任裁判官としてまとめ方のうまい方でした。民事・行政、国際税務に至るまで、理解が早く、把握力が卓抜していました。

 櫻井さんは、労働省(現・厚生労働省)の女性局長を務めた後、情報公開関係の仕事を担い、九州大学で労働法を教えていた方でした。交友が広く、行政官時代の経験を踏まえた意見には、なるほどと学ぶところがありました。あまり細かな法律論はされず、事案の流れをみるというタイプでしょうか。明るく、素敵な女性でもあります。任期は確か8年を超しますから、長官代行をおそらく長く務められることとなるでしょう。

 金築さんは、泉さんの後任です。裁判官としては刑事調査官であったこともあり、刑事の方が長いのですが、民事・商事の経験もあり、オールラウンド・プレイヤーです。理論家です。時折、意見が異なることがあり、よく議論したことが思い出されます。

 横田さんは、甲斐中さんの後任で、法務省矯正局長・広島高検検事長・次長検事を務められた方ですが、とてもソフトな、その人間性の高さを感じさせる人です。民事・商事・行政といった案件でも、熱心に取り組まれ、大局をみて、的を外さない結論を出されます。

白木さんは刑事調査官室の上席・東京地裁所長・東京高裁長官を経て、亡くなった涌井さんの後任として最高裁入りをされた方で、スポーツマンでもあり、らい落な性格ですが、非常に厳しい一面を有しておられます。卓越した刑事裁判官であり、第1小法廷に継続した多くの難件では実に的確な判断をされ、さすがと感ずることが多かったと思います。判決は法廷意見の部分がすべてであり、やたらと個別意見を書くべきではないというお考えであり、自ら筆をとられることはありませんでした。裁判員裁判で1審無罪を東京高裁が破棄して有罪とした事件が第一小法廷に係属し、破棄したのですが、この事件では補足意見を誰かが書くべきであるということになり、東京高裁判事時代に裁判員裁判における控訴審の在り方に関し議論されたことがある白木さんが書かれることが最もインパクトがありますと私が強くお薦めして、お書きになったということがありました。

私は、先任裁判官として運営責任者になった2年2カ月の間、第一小法廷の意見を全員一致にするべく努力しました。私自身は反対意見をいくつか書きましたけれども、三つの小法廷の中では、第一小法廷が一番まとまりが良く、全員一致の判決が最も多かったと思います。それは擦り合わせの努力をしたからです。調査官室からも、あるいは長官からも、第一小法廷が最も安定感があるとみられていたのではないでしょうか。

第一小法廷での日々は、季節毎の飲み会(放談会というべきか)を含めて、楽しい日々でした。また、良き秘書官や事務官に恵まれ、快適に仕事ができたことを感謝しています。

 

5 最高裁判事の選任に関する改革について

 わが国の最高裁判事の任期は、世界的に見ても突出して短いといえます。これは、裁判官出身の場合は高裁長官から選んでいることが影響しています。60代前半で高裁長官になる。大阪高裁長官、東京高裁長官から選ばれることが多いですから、任期は、5年から7年に収まってしまう。ほかも、これに右へ倣えをして、これと大きく変わらない状況なのです。

 アメリカ合衆国連邦最高裁判事は、定年がないので、90歳ぐらいまで勤める方々がまれではありません。通常、50代でなり80歳まではやります。オリバー・ウェンデル・ホームズは、60歳で最高裁判事になって90歳で辞めました。辞めたときも衰えを感じさせなかったといいます。ハロルド・ラスキとの往復書簡を読むと、これが90歳を超えた人物の文章か、と感じ入るほどの鋭敏な手紙に遭遇します。彼は優れた反対意見、個別意見を残していますが、有名なものは、75歳以降のものが多い。おそらく、彼も最高裁判事となって、さらに成長したのだと思います。同僚裁判官との議論、特にリベラルで明敏な理論家であるブランダイス判事との議論で成長したと思われます。

 私自身も、最高裁に入って成長しました。もっと長くいればもっと成長したと思います。最高裁判事を、若返らせ、ある程度長く働くことができるシステムとする改革が必要でしょう。もっとも、バランスが必要であり、あまり長すぎると硬直する。10年がひとつの目安でしょうか。50代でなり、そして、定年前に辞める、そういう慣行を形成することです。

 また、学者出身の判事も最高裁が一本釣りで選んでいますが、これは、学会からの推薦を受けるという形にすべきではないか。男女を問わず、その時代の最高の学者、例えば、團藤重光、田中二郎、伊藤正己というレベルをそれも複数選ぶべきです。行政官2名、検察官2名から学会にポストを回すべきであると思います。

6 私がした仕事 記憶に残る事件・先例価値が高い事件など

 私が関与した事件のうち判例集・裁判集に登載された事件は135件です。個別意見を書いたものは28件、うち反対意見が8件、補足意見が20件です。

 よく知られている事件の説明は、省きます。投票価値をめぐる選挙無効の大法廷事件では、2件反対意見を書きましたが、切れ味を重視し、端的に、シンプルに判断しました。

 みなさんが、日常処理されている分野では、一つは、消費者関係の過払金(返還請求)事件。消滅時効の起算点、悪意の受益者について、方向を示しました。商品取引の事件では、「差玉向かい」のケースにおいて「商品取引員は、専門的な知識を有しない委託者に対して説明義務及び通知義務を負う」という判断をしました。初めての最高裁判例です。行政事件の分野では、相当数の判例を生み出すことに貢献したと思います。

刑事事件で、一審有罪、二審有罪、そして、最高裁で破棄して無罪の自判をした事件は、最高裁が始まってから数件だと言われていますが、私が主任事件でそれに2件加えました。行政書士法違反被告事件と正当防衛の成立を認めた事件です。前者は、

調査官室の意見が真二つに分かれていました。後者は、調査官室の意見は、正当防衛は成立しないというものでした。長いメモを作成し、調査官と議論したことを思い出します。審議は、いずれの事件も、全員一致でした。

 調査官室では論点について研究会にかけ、調査官室としての意見をまとめ、上席・首席のチェックを経て調査官報告書が作成されます。その結論と異なる判断をするということが、結構ありました。 調査官裁判と言われることについては、当たらないでしょう。

7 “最高裁は変わったか“(滝井元最高裁判事の表現)

 さて、「最高裁は変わったか」は滝井(繁男)元裁判官の表現です。滝井さんは、変わりつつあるという表現をしています。いつと比較するか。石田長官時代と比較すれば、大いなる変化であるというべきでしょう。10数年との比較でも相当程度変わったと思います。

なぜ変わったのか。この間の司法改革で裁判員裁判制度を導入するために、最高裁をはじめ、各裁判所が非常に努力しました。また、裁判所の建物自体も、アクセスしやすいようにする、人が入りやすいようにする、開放的にする、こういうことも含めて、市民に開かれたものにする努力がなされて、その中で意識変革があったことが一つあると思います。

 もう一つは、下級(裁判所)裁判官指名諮問委員会という制度が作られて、思想、信条の差別による新任拒否、再任拒否という事態が消滅した。重しがなくなり、裁判所内から重苦しさがとれ、明るくなったことがあると思います。

 滝井さんのご本の中では、各分野の最高裁判決の変化が、丁寧に検討されています。ここでは、それに触れている余裕がありませんので、参照して下さい。

 基本的には、冷戦構造が崩壊し、左右の対立が薄らぎ、わが国社会が自由で開かれた成熟社会となったことが背景にあると思います。もっとも、日本社会は、格差社会化が驚くべき速度で進展しており、閉塞感がみなぎりつつあります。そうした中で、いま、右傾化しつつあり、政治にもナショナリズムに拍車をかけるような動きがあります。そうしたことが、司法に影を投げかけないよう、注視するとともに、弁護士の私たちも司法の一翼を担っているのですから、先祖返りするような対立を求めるのではなく、協議・提言・協働の精神で行動しなければならないと思います。

人の集団組織としての最高裁にとって、重要なことのひとつは、最高裁判事の人事であると思います。

 人事は最高裁長官が掌握しています。人事局長、事務総長までは情報は伝えられると思いますけれども、事実上の決定権は長官にあります。おそらく、たいへんな気苦労と腐心があるものと思われます。だが、民主的でないシステムであることは間違いないでしょう。他方、問題は、民主的であるからといって、優れた良き裁判官が選ばれるとは限らないことです。国会の手に委ねれば、政争に振り回されることになりかねません。

 新堂幸司先生がかつて書かれた本、また、最近、「判例時報」に西(謙二)さんという元判事が、戦後司法行政について回顧した論文の中で書いていることがあります。2人が共通して言っているのは、15人のうちの10人を弁護士から選べ。あとの5人は、裁判官と行政官から選べ。また、司法行政の組織、つまり事務総長とか、高裁長官からは選ばないで、現場の実務裁判官の中から選べと提案しています。そして、その組織として裁判官任命諮問委員会を作れという提案をしています。

 昔、新堂さんの提案を読んだときに、10人を弁護士から選べというのはラジカルだなという印象を抱きました。もっと通りやすい考えとする必要があるのではないかと思いました。司法制度改革審議会のような、法曹三者や学者のみならず、各界の卓越した有識者の集まりである任命諮問委員会を作ることは必要なことだと思います。そして、ただ、そういう任命諮問委員会に判事を推薦するときに、弁護士出身は何人とか、裁判官出身は何人とか、そういう枠は払う必要があるのではないか。例えば、裁判官出身の判事が退任したあとのその1人のポストに、裁判所からも、日弁連からも、内閣からも、学会からも適任者を推薦できるようする。そして、審議会が、その中から最適任と思われる人を選ぶ。今、弁護士は4人確保していますが、場合によると減ることもあるかもしれない。しかし、4人が5人になり、5人が6人になることがあり得る。日弁連から本当にすばらしい人を、それも複数推薦していけばよい。つまり、枠を払って競争するというシステムを作ることが必要だと思っています。

 かつて最高裁がスタートしたときに、任命諮問委員会という1回限りの委員会ができました。そのときに、裁判官は弁護士から5人選ばれました。あの任命諮問委員会は、裁判官が何人、検事が何人、学者が何人ということは考えなかったそうです。その時点で、その時代で、保守的な人も、リベラルな人も混合していますが、いろんな考え方を持った人の中で最高と思われる15人を選ぶように努力したものと思われます。本当に最高の人が集まっているかどうかはともかくとして、枠はなく、努力はした。そういう原初的な状態に戻すことが、必要ではないかと個人的には思っています。

時間が来ました。以上で、終わりとします。

質問

【西嶋勝彦会員】 下級審では反対意見などの個別意見が書けないのは、なぜでしょうか。合議の秘密でしばっているのでしょうか。裁判所法にあるのでしょうか。

【宮川】 裁判所法(11条)では、最高裁判所に関してのみ、裁判書きには各裁判官の意見を表示しなければならないとしています。裁判官が自由に自分の意見を言えることを保障するため、評議は秘密とすることが原則です。したがって、下級審判決で各裁判官の意見を表示しないのは当然であり、比較制度的に見ても少なくとも大陸法系の国で下級審の合議体で個別意見を書くことを容認している国はないと思います。唯一、最高裁で個別意見を書くことが許されているというより、表示しなければならないとしているのは、1つには最高裁が最高位の裁判所であり、法律審であることと深いかかわりがあるのではないでしょうか。法律判断に関しては、最高裁判例と下級審判例とは、重要度において圧倒的差がある。法の発展、判例の進化のためには、個別意見の表明は重要なことだと思います。また、2つには、国民審査制における国民の判断素材とするという趣旨があるでしょう。

【白井劍会員】 君が代訴訟の弁護団の1人です。お答えになるのが難しいかもしれませんが、二点あります。一つは、先ほど、「孤立感」という言葉がありましたが、具体的にはどういうことでしょうか。もう一つは、君が代訴訟は2011年5月から6月、7月にかけてと、今年の1月、2月の、全部で11件の東京関連の判決、判決の順序はどういう理由だったのか。また、一見、12対2の大差で負けたと見えますが、しかし、国旗・国歌の強制に慎重かどうかというレベルで言うと、真っ二つに分かれているように見えます。小法廷ごとに法廷意見が全くコピーしたかのように並んでいますが、なぜ小法廷になったのか、なぜ大法廷が開かれなかったのか。大法廷で議論をしていれば、違った展開になり得たのではないかという気がしますが、どうでしょうか。 

【宮川】 私の反対意見と多数意見の間には深い淵があると思います。孤立感の意味については、それ以上はご容赦ください。同種の事件がいくつもの小法廷に係属する場合は、伝統的に、先に審議した小法廷の判断を他の小法廷に伝え、また、後の小法廷での議論が先の小法廷にも伝えられ、小法廷間で判断と理由に食い違いが生じないようにすることが行われています。裁判の独立ということからすると、下級審ではそのようなことはあってはなりませんが、最高位の裁判所として、判断を統一する役割を担っているのですから、同一時期に審議する事件に関しては、そうした配慮をすることは必要なことと思います。君が代訴訟の場合は、私が属していた第一小法廷から議論をしていきました。次は第二小法廷で、第三小法廷という順です。第一小法廷で議論が煮詰まり、判決文の方向性が決まり、第二小法廷、第三小法廷に伝えられました。言葉遣いとかが少しずつ違いますが、流れは同じです。第二小法廷の判決が最初に出たのは、東京の事件では、事件番号が一番若いからです。去年の5月から6月の初めにかけて連続して出した事件の事件番号を見るとわかりますが、事件番号が一番若いのは、第一小法廷にまとまって係属していた北九州事件でした。しかし、北九州事件は本人訴訟で、上告理由がきちんと整理されていませんでした。法律論の上告理由の組み立てがしっかりしていないので、弁護団がきちんと付いている、東京都の事件を先に判断することとしました。その中で、事件番号が一番若いのが第二小法廷係属事件でした。北九州事件は最後にまとめて判決を出したという展開です。

 なぜ大法廷に回さないかということですが、初めから大法廷に配点されることはありません。小法廷で審議をして、大法廷に回付することについて当該小法廷で決定し、かつ他の小法廷の了解が得られるという事実上の見通しを立て、その上で、15人全員で受け入れ審議をします。二重・三重にハードルがあるのです。過去には、受け入れをされないケースもあったようです。ともかく、君が代訴訟に関しては、大法廷で審議するまでのことはないというのが大多数の意見でしたから、回付に関してはいずれの小法廷でも議論に上らなかったというに尽きます。とまれ、14人の裁判官が判断しているのですから、実質上の大法廷事件であったという見方もできるでしょう。大法廷に回付したとして、白井さんがおっしゃるように違った展開があり得るかというと、そのようなことは考えられません。多数意見は厳しい内容なのです。

 慎重にという点では真っ二つという評価ですが、戒告処分を容認しています。東京都などは、お墨付きを得たような受け止めをしています。大阪の条例に関しても、馬耳東風で、影響を与えることができなかったですね。慎重にと言いながら、他の小法廷での補足意見では、教職員の率先垂範の義務の1つであり、憲法上の要請でもあるというような意見まであるのですから、そう評価したいという気持ちは理解できますが、的確に評価された方がよいと思います。

【黒岩哲彦会員】 二つあります。一つは、上告理由の提出期限後の書面について、大野正男裁判官の本を読むと、「読まない」と書かれています。実際はいかがでしょうか。

 二つ目は、政治が民主党政権に代わったとか、震災が起きたという、政治と社会の在り方が最高裁の審議の中で配慮されているのかどうか、

【宮川】 第一点ですが、人によりけりです。私は読みます。例えば光市母子殺害事件、相当に期限が過ぎても、補充書、再補充書と、次から次へと出てくる。厖大な量です。繰り返し同じことが書かれていますが、それでも読みました。主任裁判官も読んでおられました。もちろん、新しい上告理由が付け加わっているような場合は採り上げませんが、従来の上告理由を敷衍しているもの、証拠との関係を詳述しているもの、学者の論文を追加したもの、法律鑑定意見書、それらは参考になるので丁寧に読んでいました。

第二点については、そういうことを感じたことは全くありません。民主党政権になったから、例えば、情報公開に関する事件で考え方を変えていこうとか、そういうことは一切ありません。政権が代わったからといって影響を受けるということは、少なくとも今の最高裁では考えられません。むしろ政治が混乱をしている時代だから、最高裁としては、一層きちんとした判断を出していこう、心を引き締めていこうという意味では影響はあったかもしれませんね。3・11の経験がどう判断に影響しているか、これも特段、感じたことはありません。 

【飯田美弥子会員】上告してから判断が出るまでの期間は、どうしてばらばらになるのでしょうか。沖田国賠事件で、最高裁に一度行って弁論をやり、差し戻しになって負けて、二度目の最高裁に行きました。そのあとは、先ほど来の補充書、補充書を出しましたけど、種も尽きたかという頃に、棄却という簡単な決定が届きました。長くなると期待を持ったり、待たせたりするので、なぜ時間が事件によって違うのかを教えてください。

【宮川】 近年は、長期化する事案は少なく、迅速化が図られていると思います。それでも長くなる事件もあります。理由はいくつかあります。一つは、調査官報告書が出来上がるのに時間がかかるということがあります。調査官は優秀ですが、仕事の早い・遅いがある。また、考え込む人もいる。

 審議を重ねているということもないではありません。考え抜いて審議を尽くした事件でも、上告不受理・上告棄却決定となることが相当数あります。藤田裁判官が回想録に、実際に正式に審議をした事件の中で、判決を書いたものと不受理にしたものの割合はちょうど半々だと書かれていますが、私もその位の割合だと思います。審議案件の中で半分ぐらいは、いろいろ議論をしたけども、最高裁で採り上げて、今この時点で最高裁がこの法律問題に関して見解を示すところまでは行っていなくて、もう少し下級審での議論の積み重ね、あるいは学者の議論の積み重ねを待ったほうがいいということで、不受理にするものも結構あります。三くだり半の決定文、あの数行の背後には、膨大なエネルギーが投入されていることがあることは理解してください。

【三森敏明会員】 先生が作成された意見メモ、あるいは審議用説明メモは、裁判記録等にはならないのですか。また、どこかのタイミングとか、研究目的とか、そういうかたちでオープンにされるようなことはありませんか。

【宮川】 裁判記録には綴られません。調査官に渡しますが、データベースに入っているかどうかもわかりません。これも、藤田裁判官の回想録の中にありますが、藤田さんは、在任7年半の間に150のメモを作ったそうです。それは、小論文にもなるようなものもあり、「自分としては、最初、それを書き始めたときにはいつかの時点で発表したいと思っていたけれど、実際に裁判官をやってみると、こんなものは発表できるものではないということで、自分の死んだあと、10年とか、15年とかのある一定期間を経て、つまり、その間は秘蔵し続けることを考えている」と書かれています。

 私は3年6カ月で約150件です。プリントアウトしたメモのファイルがありますが、年度ごとに1冊ずつあって、一番書いたのが平成21年度で2冊に分かれていています。合わせると相当な分量ですが、私も発表するつもりはありません。

【三森】 弁護士に戻っておられますが、先生が最高裁判事だったことを知らない裁判官は恐らくいないと思うので、代理人として法廷に出るにあたって、やりにくいことはありませんか。

【宮川】 やるべきではないというのが不文律というか、守るべきものというのが、通念でしょうか。法廷に立っている方もおられますが、最高裁内では評判がよくないと思います。もっとも、私は弁護士です。最高裁にちょっとの期間行って任務を果たし、本来の職務に戻ったという気持ちです。弁護士とは、生涯、一兵卒として第一線で働き続ける、そういう職業だと思います。法廷に出たい、あるいは交渉を担いたいという気持ちが高ぶっています。しかし、その暗黙のルールを破ってまで、今はやるつもりはありません。将来、担うにふさわしい仕事、やるべき事件があれば、引き受けるかもしれません。もっとも、経済的な理由のみで引き受けることは恐らくないでしょう。

司会 

時間も過ぎましたので、以上をもちまして、宮川先生の講演を終わらせていただきます。貴重なお話を、どうもありがとうございました。

(期成会『Wa』2012年第2号所収)

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投稿者: admin