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インタビュー小野寺利孝会員(19期)に訊く

インタビュー小野寺利孝会員(19期)に訊く

2023年11月11日

≪プロフィール≫

1967年弁護士登録。鳥生忠佑法律事務所、東京北法律事務所、文京協同法律事務所等を経て、小野寺協同法律事務所を開設。どぶ川訴訟、安中公害訴訟、トンネルじん肺訴訟、首都圏建設アスベスト訴訟、中国残留孤児国家賠償請求訴訟、福島原発被害弁護団など、長年にわたり多くの集団訴訟弁護団で中心的な活動を行い、個別の被害者の救済にとどまらず、二度と同様の人権侵害を生まない社会構造の転換を図る「政策形成訴訟」を手掛けてきた。2012年度、東京弁護士会人権賞受賞。

聞き手 伊藤敬史(56期)

辻亜希子(67期)

半田虎生 (73期)

 「政策形成訴訟」を語るときに必ず出てくるのが小野寺利孝会員の名前です。
 人権侵害が社会の構造的な要因から生み出されているときに、司法における個別の被害の救済にとどまらず、その構造的な問題について世論を喚起し、政治をも動かして、二度と同様の人権侵害が起こらないような社会構造の転換まで図るダイナミズムは、多くの後輩弁護士にとって学びの対象となってきました。今回のインタビューでは、小野寺会員の生い立ちに始まり、どぶ川訴訟、安中公害訴訟、じん肺訴訟、アスベスト訴訟、福島原発公害訴訟、中国残留孤児国賠訴訟など、多くの実践例を通じて、「政策形成訴訟」をいかに闘ってきたかを熱く語っていただきました。「政策形成訴訟」の生きた教科書ともいうべき貴重なエピソードが満載で、多くの指針が得られることと思います。

《インタビュー動画 小野寺利孝会員(19期)に訊く(前編)》

《インタビュー動画 小野寺利孝会員(19期)に訊く(後編)》

【後編】
7 政策形成訴訟④~アスベスト訴訟 00:00:33
8 政策形成訴訟⑤~原発公害訴訟とアスベスト訴訟 00:24:37
9 世論を動かしていくにあたり大切にしていること 00:32:15
10 政策形成訴訟⑥~中国残留孤児国賠訴訟 00:41:45
11 若手弁護士、法曹を目指す人へのメッセージ 00:50:45

インタビュー 石田武臣会員(20期)に聞く

2023年7月4日
東池袋法律事務所

≪プロフィール≫
1968年弁護士登録。1972年池袋総合法律事務所開設、1976年東池袋法律事務所開設、2002年東京パブリック法律事務所開設、所長に就任。以降、池袋にて複数の事務所を経て、2013年に東池袋法律事務所を再開設し現在に至る。
日本弁護士連合会:常務理事(1995年度)、監事(1993年度)、財務委員会委員(1994年度副委員長)、両性の平等委員会・特別委嘱委員(1996~2004年度)、日本司法支援センター推進本部委員(2004~2012年度副本部長、以降は顧問)
東京弁護士会:監事(1987年度)、人権委員会委員、女性の権利委員会委員(1994年度委員長)、外国人人権救済センター運営協議会(1992~1994年度議長)、外国人の権利委員会委員(1995~2004年度)、公設事務所運営委員会(2004~現在、2004~2012年副委員長)

聞き手 伊藤敬史(56期)
置塩正剛(57期)
髙遠あゆ子(63期)

石田武臣会員は、いわゆる街弁(街の弁護士)の魁としてご出身である池袋に事務所を設立され、50年以上にわたり、市民のために奔走してこられた方です。小学生の頃に虐めを受けたご経験から、自分は自分だ・自分は自分らしく生きたい、自分を大事にしたいという強い自我意識を持たれたことを原点に、20代になられてからは、自分が何よりも自分の自由を求めているのだから、他の人の自由も同じように大事にしないといけない、ということに気がつかれたとのことで、それを一貫してこられてきました。
石田会員のご活躍は女性や外国人の権利の保護など様々な分野にわたります。また、「市民のために」を貫かれ、初の都市型公設事務所である東京パブリック法律事務所を設立され、初代所長を務められました。
石田会員は弁護士の仕事は本当に楽しいと、本当に楽しそうにお話しされていたのが印象的でした。石田会員が中心になられて作られた『弁護士って おもしろい!』(日本評論社)もぜひ併せてご覧ください。

≪インタビュー動画 全編≫

【概要】

1 弁護士になった経緯
(1) 役者を目指していた学生時代(00:00:10)
(2) 弁護士との出会い~司法試験合格(00:02:42)
(3) 弁護士の魅力(00:04:27)
2 司法修習生時代の思い出(00:07:06)
3 弁護士としての活動
(1) 街の弁護士として(00:09:36)
(2) 夫婦別姓訴訟、非嫡出子差別問題(00:12:57)
(3) 中国在留孤児・残留婦人国籍存在確認訴訟(00:14:23)
(4) 弁護士のスタイル(17:56)
(5) 最初に入った事務所で学んだこと(00:21:06)
(6) 弁護士としての苦労について(00:26:25)
(7) 弁護士として大切にしてきたこと(00:29:32)
4 都市型公設事務所
(1) 東京パブリック法律事務所の設立~市民の駆け込み寺(00:31:35)
(2) 過疎地に行く人材の育成(00:36:48)
(3) 都市型公設事務所の役割(00:39:54)
(4) 新たな展開~若手弁護士の始めたアウトリーチ(00:45:48)
5 地域に根差した事務所(00:52:56)
6 女性の権利、外国人の権利
(1) 学童保育運動から女性の権利委員会(00:56:11)
(2) 外国人人権救済センター、外国人の権利委員会の設立(01:00:43)
7 若手弁護士・未来の弁護士へのメッセージ(01:05:47)

インタビュー 亀井時子会員(19期)に聞く

2023年6月21日
五反田法律事務所

≪プロフィール≫
1967年弁護士登録。牧の内法律事務所、銀座合同法律事務所、東京南部法律事務所を経て、1977年から五反田法律事務所。1991年東京弁護士会副会長。2001年内閣府司法制度改革推進本部検討会(弁護士費用敗訴者負担・法律扶助改革検討会)委員。2003年法務省司法参与。2006年法テラス東京地方事務所副所長。

聞き手 伊藤敬史(56期)
山田守彦(64期)
辻亜希子(67期)
中川裕子(70期)
岩田朋子(71期)

 亀井時子会員は、女性の司法試験合格者が5%しかいなかった時代に司法試験に合格し、町弁(町の弁護士)として56年間の弁護士人生を歩んで来られるとともに、女性として2人目の東京弁護士会副会長となり、法律相談センターの設置、法律扶助法の立法化、日本司法支援センター(法テラス)の設立などに関わり「市民の司法アクセス」の向上に大きな足跡を残してこられた方です。

 誰に対しても垣根なく接してくださるお人柄で、長年にわたり東京弁護士会の運動会の司会(ウグイス嬢)として親しまれてきた方でもあります。

 「引き合いがあったら乗ってみる」、「会議に出たら必ず意見を言う」。その自然体の姿勢に、聞き手一同、引き込まれました。

≪インタビュー動画 全編≫

【概要】
1 弁護士になった経緯について(00:00:06~)
2 手がけた事件(00:07:39~)
3 法律扶助協会時代の法律扶助制度(00:17:33~)
4 弁護士としてのやりがい(00:23:41~)
5 子育てと仕事(00:25:28~)
6 弁護士会の委員会活動(00:29:44~)
7 東京弁護士会の副会長として(00:39:24~)
8 法律扶助法の立法化・法テラス設立と司法改革の流れ(00:41:30~)
  (1) 海外視察(00:43:05~)
  (2) 英米と日本との違い(00:44:16~)
  (3) 昔の法律扶助協会時代と比べて今の法テラスをどう評価しているか(00:48:02~)
  (4) 法律扶助と弁護士敗訴者費用負担制度(00:52:29~)
  (5) 司法アクセスの拡がり(01:00:34~)
  (6) 弁護士自治の大切さ(01:02:50~)
  (7) 意見を言うことの大切さ(01:05:35~)
9 東京弁護士会運動会の司会(01:09:19~)
10 若い人へのメッセージ(01:12:31~)

「最高裁判所での3年6カ月を振り返って」

2012年7月27日
小田急山のホテル

       元最高裁判所判事
        宮 川 光 治
        (20期)

司会 (三森敏明会員)

本日、宮川先生には、「最高裁判所での3年6カ月を振り返って」ということでご講演いただきます。先生からは大変貴重なお話、そして、今後、われわれが執務を行うにあたって大変有意義なお話が伺えると思います。 

 では、先生、よろしくお願いします。

講演

 宮川です。

 さて、今日の話については、企画者の方からの注文に従い柱を立て、いわば座談のようなかたちで、人間の集団としての最高裁判所を浮かび上がらせたいと思います。

 なお、退任後も課せられる、また、守らなければならない守秘義務がありますので、そのことは承知していただきたいと思います。

 

1 最高裁判事に選ばれるまで

 最高裁判事の候補者選びは、1年ほど前から始まります。平成20年当時は、弁護士会枠というのが厳然としてありました。弁護士出身の判事は4人、東弁(東京弁護士会)、一弁(第一東京弁護士会)、二弁(第二東京弁護士会)、大阪弁護士会から各1名が選ばれるという状態がずっと続いていました。それぞれの会出身の判事が退任したときには、その弁護士会からの候補者の中から選ばれるということが確立していました。

 東弁出身の才口千晴判事が2008年9月2日に退任されるということで、次は当然、東京弁護士会の番だということで、東弁では私を含め、7名の立候補がありました。実は私は迷い、期成会の主だった方々に相談しておりました。候補として名が上がっている人の中に、親しい友人が居り、しかも彼はまさに適任でしたので、応援する側に回ろうとも考えていたのです。しかし、いろいろな方々から、「立つべきである。期成会らしい候補者としては、あなたがいいのだ」と強く勧められました。本当に最後の最後まで迷いに迷いましたが、決断をして、2007年11月に、東京弁護士会に候補者として届け出たのです。誠にありがたいことに、期成会のみならず、法友会の先輩の方々も推薦人になってくださいました。

 東弁での推薦委員会主催の公開による所信を聞く会があり、そこでは順位1位であったと聞きましたが、東京弁護士会から日弁連に対して5人を推薦することになりました。そして、他会の候補者を加えて、日弁連の推薦委員会での所信を聞く会があり、その会での秘密投票の結果に基づき、宮﨑日弁連会長(当時)が最高裁に推薦行為を行ったのは、2008年5月初めのことでした。1人につき4人以上を推薦するということが最高裁から求められています。会長は順位を付けて推薦されたと思います。もっとも、最高裁は、独自の調査に基づいて最高裁が考える適任者を選ぶわけですから、この順位に拘束力があるわけではありません。近年も、日弁連が付した順位通りでない選任が行われていると聞いています。

 その後、何の連絡もなく日々が過ぎて、2008年8月4日月曜日、クレオで辻誠先生のお別れ会がありました。そのパーティーに出ていたら、最高裁から連絡があり、電話をかけると、大谷直人人事局長から、「明日の閣議で最高裁判事に就任することが了承される予定で、本日、長官が福田(康夫)総理の了解を得ました」という説明がありました。会場に戻ると、ちょうど宮﨑会長の携帯にも電話が入り、宮﨑さんがそれを聞いて、私のほうを見て会釈をしたので、宮﨑さんのところにも同じ連絡が入ったことがわかりました。これが、事実上決まったことがわかった瞬間です。

 それから1カ月間が大変でした。身辺整理をすべて終え、9月3日、車が迎えに来て最高裁を訪れると、長官室で島田仁郎長官と大谷(剛彦)事務総長(いずれも当時)が待っておられました。そのときの島田長官の言葉を忘れることができません。「最高裁としてお待ち申しておりました。」「弁護士会の信頼が絶大であり、この人をおいてないと考えました。法曹養成に尽くされてきたことは、かねて敬服しております。私の同志とも思っております。」 島田長官の人柄もあり、とても暖かなものが伝わり、胸に熱く込み上げてくるものがありました。

 振り返ると、期成会から民事弁護教官に推薦されて立候補したことがありますが、最初に立候補したときは選ばれませんでした。歴史を振り返ると、弁護教官は、期成会から優れた人が数多く推薦されていますが、6期の宮原守男先生が刑事弁護教官に選任された以外はすべて選ばれませんでした。一人一人の方々が、三度、二度と挑戦されましたが、門が開くことはなかったのです。冷戦時代、期成会は弁護士会内左翼であるという見方が根強くあり、最高裁では警戒感が払拭できなかったのだと思います。私は挑戦された先輩の位牌を引き継ぐような思いで、三度挑戦すると腹を決めていました。永遠のリレーです。二度目の折、その頃委員会で親しくさせていただいていた故大野正男先生が、「宮川くん、1回や2回で教官として採用されるというのは小物だ。俺のように3回戦やらないとだめだ」と言って下さいました。大野先生は、第二東京弁護士会の強い後押しがあり、刑事弁護教官に三度目の挑戦で選任され、卓越した教官として、活躍された方です。「しかし、よし、掛け合ってあげよう」と司法研修所に、実際、掛け合ってくださいました。もう1人東京弁護士会法友会の故橋元四郎平先生が、最高裁に話をすると言ってくださいました。橋元先生が東弁の司法修習委員長であったときに、私が副委員長となり、以来ずっと親しくお付き合いをいただいていますが、当時、北山六郎日弁連会長の下での事務総長の勤めを終えられたその年のことです。実際、橋元先生は最高裁を説得してくださいました。このように、私は、素晴らしい方々の援助を得て、2回目の挑戦で民事弁護教官になることができました。3年間、事務所の仕事は、並木政一さん、古谷和久さん、高橋鉄さん達に委せ、教官の仕事を真剣に務め上げました。教官としては、修習生からも、研修所からも評価を得たと思います。

 のちに司法改革の頃、新司法試験のもとでの新しい修習制度を作るということで、最高裁に司法修習委員会が新たに設けられることになり、12人の委員のうちの1人を日弁連から出すことになりました。日弁連は、当初、日弁連司法修習委員長等を推薦する予定でしたが、ある日、当時の日弁連会長から最高裁では宮川先生の名前が挙がっているので、引き受けて戴けないかとの連絡があり、お引き受けすることとなりました。約3年間でしたでしょうか、意見を積極的に述べ、ペーパーを提出する等、委員の仕事を誠実にこなしました。そして、今度、最高裁判事になられた大橋(正春)さんにバトンタッチしました。

 法科大学院制度や新しい懲戒委員会等の司法改革に努力したことが評価されたということが言われていると聞いたことがありますが、司法修習をめぐるこうした長い地道な活動が信頼を得て、最高裁判事に就任できた契機のひとつとなっていることは間違いないと思います。

2 最高裁判事とは  スタートの頃・日常・経済生活もろもろ

 さて、島田長官の言葉で気持ちのいいスタートが切れ、正直、これは頑張らなければいけないと思い、また、任期が短いこともあり、最初からスパートして、最後まで疾走しようと心に決めました。

 通常は、就任後、調査官室や事務総局から説明を受けたり、資料を読んだり、勉強したりと、審議に参加するまでに1カ月近くの待機期間があります。ちょうどそのとき、第一小法廷で、元社会保険庁の長官だった横尾(和子)裁判官が任期を残して退官され、3人構成となるので、急遽、審議に加わることとなりました。9月3日に就任して、挨拶回りを済ませたと思ったら、5日には審議資料が判事室に届き、9月11日午後の審議から参加しました。調査官報告書、判例・文献、1審判決、2審判決、上告関係の書面が1つづりとなっています。この最初の事件は、民事事件で請負代金請求訴訟。調査官の報告書の結論は上告棄却でした。読むと、清算関係に関し、問題がありこれは破棄事案ではないかと考えていたところ、8日、主任の泉裁判官作成の審議の際の説明用メモが届きました。12頁の周到なメモで、原判決には相殺抗弁に関する判断の逸脱があり、破棄差し戻すとともに、担保を立てさせないで執行停止をするのが相当であるという結論でした。同日、今度は涌井裁判官の1頁の意見メモが届き、理由に「食違い」があり、上告理由は理由があるという意見でした。なるほど、審議前に、こういう風に自分の意見をまとめ、配るのかと理解し、学ぶところがありました。私も2頁の意見メモをまとめ、11日の朝、調査官を通じて配布してもらいました。審議の結果、全員一致で、調査官報告書とは異なり、破棄判決となり、12月に弁論を開き、1月に判決をすることとなりました。この事件は、特段先例価値があるわけでもないので、判例集等に登載されていませんが、泉、涌井両裁判官の議論にプロ裁判官の厳しさを感じ、大いに学び、また審議の作法を会得したという意味で、印象に残っています。これ以降、私は、審議事件のひとつひとつについて、自分の意見をペーパーにまとめ、必要に応じて、意見メモとして他の裁判官に配布することとしました。この習慣は、最後の事件まで続きました。

 私の最初の個別意見は、警察官が私費で購入したノートに記載し、一時自宅に持ち帰っていた関係者の取り調メモについて、証拠開示を命じた判断を是認した事件(平成20年9月30日決定・刑集62巻8号2753頁)です。この事件は、特別抗告事件で、早く決定しなければならなかった事案です。9月10日に大部の調査官報告書・事件記録の写し、参考文献・参考判例等の資料が届き、9月18日に審議することになりました。驚いたのは、審議の2、3日前に主任の涌井裁判官の11頁にわたる説明用メモが届いたと思うと、泉さんのメモが届き、検察官出身の甲斐中裁判官の涌井・泉意見対する反対意見メモが17日には届くという展開です。私は、配布するに値するような意見メモを即座に用意することはできず、18日の審議に参加しました。審議の結果は3対1でした。そして、当日、決定理由案を審議の場で完成させました。甲斐中さんの反対意見が22日に配布されました。これを読んで、私は、弁護士として多数意見の立場から反駁する必要を感じ、意見をその日のうちに書き上げ、涌井さん、泉さんの了解を得て、補足意見として決定に付しました。この決定はリーディングケースとして機能していますが、実に短期間のうちに生み出されたもので、3人の同僚裁判官の力量を感じ、議論の楽しさ、議論では対立することがあるが、その後の爽やかさは、実に良いものだと思ったものです。

 さて、裁判官生活の実情については「Wa」(2012年№1-36頁)のインタビュー記事に書かれていますし、恐らく、東京弁護士会の会報の「LIBRA」6月号の記事も読んでいただいていると思いますから省略します。

 私はオンとオフの切り替えがうまいほうで、激務ではありましたけれども、人間的な生活を送ったと思います。日々を楽しむ、音楽を聞いたり、小説を読んだり、そういう人間的な時間を持っていないとよい判断はできないと思います。私は疾走しましたが、リズム良く走ることができた3年6カ月であったと思います。

 したがって、裁判官生活のストレスはありませんでした。もっとも、いわゆる君が代訴訟と光市母子殺害事件の二つの事件では、孤立感を感じたことがあり、事件そのものから来るストレスもありました。それは、真剣に取り組んでいる以上、多かれ少なかれ避けられないことで、いたしかたないことであったと思います。今、振り返ると、誠に楽しい、充実した日々であり、人生のひととき、そういう日々を送れたということについては、人生の幸福を感ずるとともに、選んで下さった方々、さらには同僚裁判官やサポートしてくれた人たち、感謝しています。

 ◇

 裁判官の「経済生活」を知りたいとのことですので、その一端をお知らせしておくと、俸給は国務大臣と同じですが、いろいろと引かれて、手取りではかなり少なくなります。これを多いと見るか少ないと見るか評価は分かれるところだと思いますが、超激務であること、これ以外には全く何もないことを考慮すると、多いとは言えないのではないでしょうか。しかし、生活するには不足はありません。ところが、「3・11」のあとの菅内閣の方針で、内閣総理大臣と国務大臣は2年間30%を返上することになり、最高裁判事もそれに倣うことになって、現在はそういう状態ですから、現在の最高裁判事はなかなかに大変だと思います。退職金については、財務省の圧力もあって、数年前に3分の1に減らされました。私は減額後の適用ですので、受領額は900万円程度でした。

年金はどうかというと、30万円程度です。月額ではありません。年額です。弁護士に戻っても、訴訟や紛争事件の代理人になることは好ましくないと言われており、事件は受任していません。かつての顧問先や依頼者との関係は、浦島太郎のような状態でしょうか。このようなことで、弁護士から最高裁判事となることは、経済的には決してお薦めできません。しかし、司法研修所の教官と同じで、そうしたことには代えられない喜びや生きがい、とりわけ法の発展にかかわっているという充実感を得ることができることは確かです。

 宮中、そして宮内庁との関係についても実情を知りたいということですので、少し、お話しします。藤田元裁判官の最近の『回想録』に、実に詳しく書かれています。一言で言うと、関係は深くて密であるということです。これは、私にとって驚いたことの1つです。宮内庁長官のお話では、現陛下は、三権の中で司法との関係を最も重きにしておられるということで、体調を崩すほどの超多忙の中でも、最高裁との関係での行事は、減らさないようにされていることが分かります。

 いったい1年間でどのような行事があるかというと、まず、新年の1月1日には妻同伴で新年のご挨拶に伺います。これは全国八高裁長官も一緒に行きます。1月には講書始(の儀)、これは陛下が3人の学者たちから年初の講義を受けられるのに順番に立ち会います。さらに歌会始(の儀)、1月の終わりにはカモ猟のご招待があります。

 5月には春の園遊会、春季皇霊祭に立ち会います。秋になると秋季皇霊祭、秋の園遊会があり、新嘗祭があります。そして、午餐会と言って、最高裁判事と高裁長官だけを特別に招待され、フランス料理と素晴らしいワインを、見事な給仕を受けてごちそうになり、懇談をして下さるという会があります。天皇誕生日、それ以外に、長官と代行は晩餐会やお見送りなどがあります。

 そして、年1回、宮内庁の長官以下十数人の方々を、最高裁長官の公邸、あるいは最高裁の特別会議室という名前のパーティーホールに招待して接待します。そのときは、最高裁判事全員が接待役を務めます。

 このように強い関係があり、最高裁判事はまさにエスタブリッシュメント、つまり、権威の中に一員として組み込まれているのであり、一般の判事とは別次元の存在であるということが分かります。そのことが、最高裁判事の心情や意識に影響しないことはないでしょう。

 私自身のことを述懐すると、私は、最高裁入りするまでは、天皇家のことには特段の関心はありませんでした。しかし、天皇と皇后両陛下を、深く尊敬するようになりました。尋常ではないお仕事ぶりであり、特に「3・11」直後の行動を見ると、わが国の国民の統合としての象徴である存在として、見事に務められていると感服します。園部逸夫元最高裁判事の『皇室制度を考える』という著書を買い求め、読むということなど、最高裁入りがなければあり得なかったでしょう。私以外の方々についても、心情を揺さぶられるものが、裁判官生活の中であるのではないかと思います。

3 最高裁の構成と調査官組織について

 さて、最高裁の構成は、ご承知のように裁判部門と司法行政部門に分かれています。裁判部門は、大法廷と三つの小法廷がありますが、それぞれに事務官や書記官たちがたくさんいます。

 大法廷事件は常に1件あるかないかという状況ですので、大法廷関係の職員たち、暇であろうと思います。一方、小法廷の書記官たちは本当に忙しいのです。判決について、何人も回し読みをして、誤字脱字、記録に照らし合わせて引用のミスがないかをチェックしています。裁判官がチェックし、調査官がチェックしたあとに、なお書記官が、細かいところですが、ミスを見つけ出してきます。そういう意味では完璧なものに仕上げられているのですが、小法廷書記官の役割は大きいものがあるでしょう。

 司法行政部門は7局3課があり、7局は、総務局、人事局、経理局、民事局、刑事局、行政局、家庭局。3課が、秘書課、広報課、情報政策課です。

 人事局が重要な局として位置づけられているのは間違いないでしょう。非常に優秀な裁判官が人事課長・人事局長を担っています。私のときは大谷直人人事局長でしたが、大谷さんはその後、静岡地裁所長となり、今度事務総長として最高裁に戻られました。今度名古屋高裁長官となった山崎敏充事務総長も人事局長でした。人事局長→事務総長→高裁長官→最高裁判事というのが、確立したルートであるとよく書かれますが、実際に見て、そうであると感じました。

 裁判所の中で、誰が最高裁判事となるかは、短期的には予想がつきますが、中期的にもしっかりと考えられているのではないかと思われます。わが国司法の安定と隆盛を考えるのであれば、当然のことでもありますが、そういう世界です。

さて、最高裁庁舎では約2000人の職員が働いているといわれていますが、その大半は事務総局職員です。日弁連も大きな充実した組織となってきましたが、到底、太刀打ちできないスケールです。そのような最高裁と対等に渡り合い、協議し、協働するためには、しっかりした、そして成熟した執行部が必要です。そいう意味で近年の日弁連執行部の動向には、最高裁にいて、危うさを感じておりました。

 ◇

 さて、裁判部門には調査官室があります。私がいたときには調査官は37人で、首席調査官、さらに、民事と刑事と行政の三部に分かれていて、それぞれ上席調査官がいて、その下に、民事17人、行政9人、刑事10人の一般の調査官がいました。

 私が退任した直後に、民事が1人増えました。今は38人です。平成元年から長い間、調査官室は総勢29人でしたが、8名増えました。増えたのは、民事が4人、行政4人、刑事は変わらずという状況です。首席調査官は、終わると必ず高裁長官になるというレベルの人が担っています。過去の首席調査官は7人連続して最高裁判事になっています。3人の上席の人たちは、退任後は必ず地裁の所長になるというレベルの人たちです。

 最高裁の事務総局員とか調査官には、いったいどういう人たちがなるのかということです。私は教官として42期の後期から45期の前期までを担当しましたが、クラスの任官者のトップ3人が、どちらかになっています。事務総局に入るか調査官に入るかは人それぞれで、個性に従い選ばれていると感じます。つまり、そういうエリートを裁判所の中核として育てていくことに関しては、最高裁という組織は、人材登用・養成のシステムが確立していて見事なものだと思います。弁護士の世界はそうはいきませんが、しかし、よい意味での日弁連官僚というものを養成していくことが必要であり、学ばなければなりませんね。

 

4 私がいた当時の第一小法廷の同僚たち

 横尾裁判官は行政官出身で、すぐ退任しました。泉徳治さんは、最高裁人事局長から事務総長、東京高裁長官、最高裁判事になったというエリート中のエリートです。明敏で、かつリベラルな方で、反対意見をたくさん書かれ、在任6年8カ月の間に25件書かれたとのことです。信じられないような数字ですね。その泉さんとは、残念ながら4カ月しかご一緒できませんでした。亡くなった涌井裁判官とは1年少し一緒でした。検察官出身の甲斐中(辰夫)さんとも1年数カ月、そして、櫻井(龍子)さん、金築(誠志)さん、横田(尤孝)さん、白木(勇)さんという方々と仕事をしました。

 涌井裁判官は優れた理論家で、非常にオーソドックスな法律理論を展開されます。伝統的な行政法理論の理論家でもあった方です。私は、涌井裁判官の仕事ぶりと緻密な法律論から最も多くを学びました。1年余の間に、涌井裁判官と意見が対立したことが少なくありませんでしたが、涌井さんとの議論は、刺激的で楽しいものでした。

 甲斐中さんはまさに練達の検察官ですが、柔軟で懐が深く、先任裁判官としてまとめ方のうまい方でした。民事・行政、国際税務に至るまで、理解が早く、把握力が卓抜していました。

 櫻井さんは、労働省(現・厚生労働省)の女性局長を務めた後、情報公開関係の仕事を担い、九州大学で労働法を教えていた方でした。交友が広く、行政官時代の経験を踏まえた意見には、なるほどと学ぶところがありました。あまり細かな法律論はされず、事案の流れをみるというタイプでしょうか。明るく、素敵な女性でもあります。任期は確か8年を超しますから、長官代行をおそらく長く務められることとなるでしょう。

 金築さんは、泉さんの後任です。裁判官としては刑事調査官であったこともあり、刑事の方が長いのですが、民事・商事の経験もあり、オールラウンド・プレイヤーです。理論家です。時折、意見が異なることがあり、よく議論したことが思い出されます。

 横田さんは、甲斐中さんの後任で、法務省矯正局長・広島高検検事長・次長検事を務められた方ですが、とてもソフトな、その人間性の高さを感じさせる人です。民事・商事・行政といった案件でも、熱心に取り組まれ、大局をみて、的を外さない結論を出されます。

白木さんは刑事調査官室の上席・東京地裁所長・東京高裁長官を経て、亡くなった涌井さんの後任として最高裁入りをされた方で、スポーツマンでもあり、らい落な性格ですが、非常に厳しい一面を有しておられます。卓越した刑事裁判官であり、第1小法廷に継続した多くの難件では実に的確な判断をされ、さすがと感ずることが多かったと思います。判決は法廷意見の部分がすべてであり、やたらと個別意見を書くべきではないというお考えであり、自ら筆をとられることはありませんでした。裁判員裁判で1審無罪を東京高裁が破棄して有罪とした事件が第一小法廷に係属し、破棄したのですが、この事件では補足意見を誰かが書くべきであるということになり、東京高裁判事時代に裁判員裁判における控訴審の在り方に関し議論されたことがある白木さんが書かれることが最もインパクトがありますと私が強くお薦めして、お書きになったということがありました。

私は、先任裁判官として運営責任者になった2年2カ月の間、第一小法廷の意見を全員一致にするべく努力しました。私自身は反対意見をいくつか書きましたけれども、三つの小法廷の中では、第一小法廷が一番まとまりが良く、全員一致の判決が最も多かったと思います。それは擦り合わせの努力をしたからです。調査官室からも、あるいは長官からも、第一小法廷が最も安定感があるとみられていたのではないでしょうか。

第一小法廷での日々は、季節毎の飲み会(放談会というべきか)を含めて、楽しい日々でした。また、良き秘書官や事務官に恵まれ、快適に仕事ができたことを感謝しています。

 

5 最高裁判事の選任に関する改革について

 わが国の最高裁判事の任期は、世界的に見ても突出して短いといえます。これは、裁判官出身の場合は高裁長官から選んでいることが影響しています。60代前半で高裁長官になる。大阪高裁長官、東京高裁長官から選ばれることが多いですから、任期は、5年から7年に収まってしまう。ほかも、これに右へ倣えをして、これと大きく変わらない状況なのです。

 アメリカ合衆国連邦最高裁判事は、定年がないので、90歳ぐらいまで勤める方々がまれではありません。通常、50代でなり80歳まではやります。オリバー・ウェンデル・ホームズは、60歳で最高裁判事になって90歳で辞めました。辞めたときも衰えを感じさせなかったといいます。ハロルド・ラスキとの往復書簡を読むと、これが90歳を超えた人物の文章か、と感じ入るほどの鋭敏な手紙に遭遇します。彼は優れた反対意見、個別意見を残していますが、有名なものは、75歳以降のものが多い。おそらく、彼も最高裁判事となって、さらに成長したのだと思います。同僚裁判官との議論、特にリベラルで明敏な理論家であるブランダイス判事との議論で成長したと思われます。

 私自身も、最高裁に入って成長しました。もっと長くいればもっと成長したと思います。最高裁判事を、若返らせ、ある程度長く働くことができるシステムとする改革が必要でしょう。もっとも、バランスが必要であり、あまり長すぎると硬直する。10年がひとつの目安でしょうか。50代でなり、そして、定年前に辞める、そういう慣行を形成することです。

 また、学者出身の判事も最高裁が一本釣りで選んでいますが、これは、学会からの推薦を受けるという形にすべきではないか。男女を問わず、その時代の最高の学者、例えば、團藤重光、田中二郎、伊藤正己というレベルをそれも複数選ぶべきです。行政官2名、検察官2名から学会にポストを回すべきであると思います。

6 私がした仕事 記憶に残る事件・先例価値が高い事件など

 私が関与した事件のうち判例集・裁判集に登載された事件は135件です。個別意見を書いたものは28件、うち反対意見が8件、補足意見が20件です。

 よく知られている事件の説明は、省きます。投票価値をめぐる選挙無効の大法廷事件では、2件反対意見を書きましたが、切れ味を重視し、端的に、シンプルに判断しました。

 みなさんが、日常処理されている分野では、一つは、消費者関係の過払金(返還請求)事件。消滅時効の起算点、悪意の受益者について、方向を示しました。商品取引の事件では、「差玉向かい」のケースにおいて「商品取引員は、専門的な知識を有しない委託者に対して説明義務及び通知義務を負う」という判断をしました。初めての最高裁判例です。行政事件の分野では、相当数の判例を生み出すことに貢献したと思います。

刑事事件で、一審有罪、二審有罪、そして、最高裁で破棄して無罪の自判をした事件は、最高裁が始まってから数件だと言われていますが、私が主任事件でそれに2件加えました。行政書士法違反被告事件と正当防衛の成立を認めた事件です。前者は、

調査官室の意見が真二つに分かれていました。後者は、調査官室の意見は、正当防衛は成立しないというものでした。長いメモを作成し、調査官と議論したことを思い出します。審議は、いずれの事件も、全員一致でした。

 調査官室では論点について研究会にかけ、調査官室としての意見をまとめ、上席・首席のチェックを経て調査官報告書が作成されます。その結論と異なる判断をするということが、結構ありました。 調査官裁判と言われることについては、当たらないでしょう。

7 “最高裁は変わったか“(滝井元最高裁判事の表現)

 さて、「最高裁は変わったか」は滝井(繁男)元裁判官の表現です。滝井さんは、変わりつつあるという表現をしています。いつと比較するか。石田長官時代と比較すれば、大いなる変化であるというべきでしょう。10数年との比較でも相当程度変わったと思います。

なぜ変わったのか。この間の司法改革で裁判員裁判制度を導入するために、最高裁をはじめ、各裁判所が非常に努力しました。また、裁判所の建物自体も、アクセスしやすいようにする、人が入りやすいようにする、開放的にする、こういうことも含めて、市民に開かれたものにする努力がなされて、その中で意識変革があったことが一つあると思います。

 もう一つは、下級(裁判所)裁判官指名諮問委員会という制度が作られて、思想、信条の差別による新任拒否、再任拒否という事態が消滅した。重しがなくなり、裁判所内から重苦しさがとれ、明るくなったことがあると思います。

 滝井さんのご本の中では、各分野の最高裁判決の変化が、丁寧に検討されています。ここでは、それに触れている余裕がありませんので、参照して下さい。

 基本的には、冷戦構造が崩壊し、左右の対立が薄らぎ、わが国社会が自由で開かれた成熟社会となったことが背景にあると思います。もっとも、日本社会は、格差社会化が驚くべき速度で進展しており、閉塞感がみなぎりつつあります。そうした中で、いま、右傾化しつつあり、政治にもナショナリズムに拍車をかけるような動きがあります。そうしたことが、司法に影を投げかけないよう、注視するとともに、弁護士の私たちも司法の一翼を担っているのですから、先祖返りするような対立を求めるのではなく、協議・提言・協働の精神で行動しなければならないと思います。

人の集団組織としての最高裁にとって、重要なことのひとつは、最高裁判事の人事であると思います。

 人事は最高裁長官が掌握しています。人事局長、事務総長までは情報は伝えられると思いますけれども、事実上の決定権は長官にあります。おそらく、たいへんな気苦労と腐心があるものと思われます。だが、民主的でないシステムであることは間違いないでしょう。他方、問題は、民主的であるからといって、優れた良き裁判官が選ばれるとは限らないことです。国会の手に委ねれば、政争に振り回されることになりかねません。

 新堂幸司先生がかつて書かれた本、また、最近、「判例時報」に西(謙二)さんという元判事が、戦後司法行政について回顧した論文の中で書いていることがあります。2人が共通して言っているのは、15人のうちの10人を弁護士から選べ。あとの5人は、裁判官と行政官から選べ。また、司法行政の組織、つまり事務総長とか、高裁長官からは選ばないで、現場の実務裁判官の中から選べと提案しています。そして、その組織として裁判官任命諮問委員会を作れという提案をしています。

 昔、新堂さんの提案を読んだときに、10人を弁護士から選べというのはラジカルだなという印象を抱きました。もっと通りやすい考えとする必要があるのではないかと思いました。司法制度改革審議会のような、法曹三者や学者のみならず、各界の卓越した有識者の集まりである任命諮問委員会を作ることは必要なことだと思います。そして、ただ、そういう任命諮問委員会に判事を推薦するときに、弁護士出身は何人とか、裁判官出身は何人とか、そういう枠は払う必要があるのではないか。例えば、裁判官出身の判事が退任したあとのその1人のポストに、裁判所からも、日弁連からも、内閣からも、学会からも適任者を推薦できるようする。そして、審議会が、その中から最適任と思われる人を選ぶ。今、弁護士は4人確保していますが、場合によると減ることもあるかもしれない。しかし、4人が5人になり、5人が6人になることがあり得る。日弁連から本当にすばらしい人を、それも複数推薦していけばよい。つまり、枠を払って競争するというシステムを作ることが必要だと思っています。

 かつて最高裁がスタートしたときに、任命諮問委員会という1回限りの委員会ができました。そのときに、裁判官は弁護士から5人選ばれました。あの任命諮問委員会は、裁判官が何人、検事が何人、学者が何人ということは考えなかったそうです。その時点で、その時代で、保守的な人も、リベラルな人も混合していますが、いろんな考え方を持った人の中で最高と思われる15人を選ぶように努力したものと思われます。本当に最高の人が集まっているかどうかはともかくとして、枠はなく、努力はした。そういう原初的な状態に戻すことが、必要ではないかと個人的には思っています。

時間が来ました。以上で、終わりとします。

質問

【西嶋勝彦会員】 下級審では反対意見などの個別意見が書けないのは、なぜでしょうか。合議の秘密でしばっているのでしょうか。裁判所法にあるのでしょうか。

【宮川】 裁判所法(11条)では、最高裁判所に関してのみ、裁判書きには各裁判官の意見を表示しなければならないとしています。裁判官が自由に自分の意見を言えることを保障するため、評議は秘密とすることが原則です。したがって、下級審判決で各裁判官の意見を表示しないのは当然であり、比較制度的に見ても少なくとも大陸法系の国で下級審の合議体で個別意見を書くことを容認している国はないと思います。唯一、最高裁で個別意見を書くことが許されているというより、表示しなければならないとしているのは、1つには最高裁が最高位の裁判所であり、法律審であることと深いかかわりがあるのではないでしょうか。法律判断に関しては、最高裁判例と下級審判例とは、重要度において圧倒的差がある。法の発展、判例の進化のためには、個別意見の表明は重要なことだと思います。また、2つには、国民審査制における国民の判断素材とするという趣旨があるでしょう。

【白井劍会員】 君が代訴訟の弁護団の1人です。お答えになるのが難しいかもしれませんが、二点あります。一つは、先ほど、「孤立感」という言葉がありましたが、具体的にはどういうことでしょうか。もう一つは、君が代訴訟は2011年5月から6月、7月にかけてと、今年の1月、2月の、全部で11件の東京関連の判決、判決の順序はどういう理由だったのか。また、一見、12対2の大差で負けたと見えますが、しかし、国旗・国歌の強制に慎重かどうかというレベルで言うと、真っ二つに分かれているように見えます。小法廷ごとに法廷意見が全くコピーしたかのように並んでいますが、なぜ小法廷になったのか、なぜ大法廷が開かれなかったのか。大法廷で議論をしていれば、違った展開になり得たのではないかという気がしますが、どうでしょうか。 

【宮川】 私の反対意見と多数意見の間には深い淵があると思います。孤立感の意味については、それ以上はご容赦ください。同種の事件がいくつもの小法廷に係属する場合は、伝統的に、先に審議した小法廷の判断を他の小法廷に伝え、また、後の小法廷での議論が先の小法廷にも伝えられ、小法廷間で判断と理由に食い違いが生じないようにすることが行われています。裁判の独立ということからすると、下級審ではそのようなことはあってはなりませんが、最高位の裁判所として、判断を統一する役割を担っているのですから、同一時期に審議する事件に関しては、そうした配慮をすることは必要なことと思います。君が代訴訟の場合は、私が属していた第一小法廷から議論をしていきました。次は第二小法廷で、第三小法廷という順です。第一小法廷で議論が煮詰まり、判決文の方向性が決まり、第二小法廷、第三小法廷に伝えられました。言葉遣いとかが少しずつ違いますが、流れは同じです。第二小法廷の判決が最初に出たのは、東京の事件では、事件番号が一番若いからです。去年の5月から6月の初めにかけて連続して出した事件の事件番号を見るとわかりますが、事件番号が一番若いのは、第一小法廷にまとまって係属していた北九州事件でした。しかし、北九州事件は本人訴訟で、上告理由がきちんと整理されていませんでした。法律論の上告理由の組み立てがしっかりしていないので、弁護団がきちんと付いている、東京都の事件を先に判断することとしました。その中で、事件番号が一番若いのが第二小法廷係属事件でした。北九州事件は最後にまとめて判決を出したという展開です。

 なぜ大法廷に回さないかということですが、初めから大法廷に配点されることはありません。小法廷で審議をして、大法廷に回付することについて当該小法廷で決定し、かつ他の小法廷の了解が得られるという事実上の見通しを立て、その上で、15人全員で受け入れ審議をします。二重・三重にハードルがあるのです。過去には、受け入れをされないケースもあったようです。ともかく、君が代訴訟に関しては、大法廷で審議するまでのことはないというのが大多数の意見でしたから、回付に関してはいずれの小法廷でも議論に上らなかったというに尽きます。とまれ、14人の裁判官が判断しているのですから、実質上の大法廷事件であったという見方もできるでしょう。大法廷に回付したとして、白井さんがおっしゃるように違った展開があり得るかというと、そのようなことは考えられません。多数意見は厳しい内容なのです。

 慎重にという点では真っ二つという評価ですが、戒告処分を容認しています。東京都などは、お墨付きを得たような受け止めをしています。大阪の条例に関しても、馬耳東風で、影響を与えることができなかったですね。慎重にと言いながら、他の小法廷での補足意見では、教職員の率先垂範の義務の1つであり、憲法上の要請でもあるというような意見まであるのですから、そう評価したいという気持ちは理解できますが、的確に評価された方がよいと思います。

【黒岩哲彦会員】 二つあります。一つは、上告理由の提出期限後の書面について、大野正男裁判官の本を読むと、「読まない」と書かれています。実際はいかがでしょうか。

 二つ目は、政治が民主党政権に代わったとか、震災が起きたという、政治と社会の在り方が最高裁の審議の中で配慮されているのかどうか、

【宮川】 第一点ですが、人によりけりです。私は読みます。例えば光市母子殺害事件、相当に期限が過ぎても、補充書、再補充書と、次から次へと出てくる。厖大な量です。繰り返し同じことが書かれていますが、それでも読みました。主任裁判官も読んでおられました。もちろん、新しい上告理由が付け加わっているような場合は採り上げませんが、従来の上告理由を敷衍しているもの、証拠との関係を詳述しているもの、学者の論文を追加したもの、法律鑑定意見書、それらは参考になるので丁寧に読んでいました。

第二点については、そういうことを感じたことは全くありません。民主党政権になったから、例えば、情報公開に関する事件で考え方を変えていこうとか、そういうことは一切ありません。政権が代わったからといって影響を受けるということは、少なくとも今の最高裁では考えられません。むしろ政治が混乱をしている時代だから、最高裁としては、一層きちんとした判断を出していこう、心を引き締めていこうという意味では影響はあったかもしれませんね。3・11の経験がどう判断に影響しているか、これも特段、感じたことはありません。 

【飯田美弥子会員】上告してから判断が出るまでの期間は、どうしてばらばらになるのでしょうか。沖田国賠事件で、最高裁に一度行って弁論をやり、差し戻しになって負けて、二度目の最高裁に行きました。そのあとは、先ほど来の補充書、補充書を出しましたけど、種も尽きたかという頃に、棄却という簡単な決定が届きました。長くなると期待を持ったり、待たせたりするので、なぜ時間が事件によって違うのかを教えてください。

【宮川】 近年は、長期化する事案は少なく、迅速化が図られていると思います。それでも長くなる事件もあります。理由はいくつかあります。一つは、調査官報告書が出来上がるのに時間がかかるということがあります。調査官は優秀ですが、仕事の早い・遅いがある。また、考え込む人もいる。

 審議を重ねているということもないではありません。考え抜いて審議を尽くした事件でも、上告不受理・上告棄却決定となることが相当数あります。藤田裁判官が回想録に、実際に正式に審議をした事件の中で、判決を書いたものと不受理にしたものの割合はちょうど半々だと書かれていますが、私もその位の割合だと思います。審議案件の中で半分ぐらいは、いろいろ議論をしたけども、最高裁で採り上げて、今この時点で最高裁がこの法律問題に関して見解を示すところまでは行っていなくて、もう少し下級審での議論の積み重ね、あるいは学者の議論の積み重ねを待ったほうがいいということで、不受理にするものも結構あります。三くだり半の決定文、あの数行の背後には、膨大なエネルギーが投入されていることがあることは理解してください。

【三森敏明会員】 先生が作成された意見メモ、あるいは審議用説明メモは、裁判記録等にはならないのですか。また、どこかのタイミングとか、研究目的とか、そういうかたちでオープンにされるようなことはありませんか。

【宮川】 裁判記録には綴られません。調査官に渡しますが、データベースに入っているかどうかもわかりません。これも、藤田裁判官の回想録の中にありますが、藤田さんは、在任7年半の間に150のメモを作ったそうです。それは、小論文にもなるようなものもあり、「自分としては、最初、それを書き始めたときにはいつかの時点で発表したいと思っていたけれど、実際に裁判官をやってみると、こんなものは発表できるものではないということで、自分の死んだあと、10年とか、15年とかのある一定期間を経て、つまり、その間は秘蔵し続けることを考えている」と書かれています。

 私は3年6カ月で約150件です。プリントアウトしたメモのファイルがありますが、年度ごとに1冊ずつあって、一番書いたのが平成21年度で2冊に分かれていています。合わせると相当な分量ですが、私も発表するつもりはありません。

【三森】 弁護士に戻っておられますが、先生が最高裁判事だったことを知らない裁判官は恐らくいないと思うので、代理人として法廷に出るにあたって、やりにくいことはありませんか。

【宮川】 やるべきではないというのが不文律というか、守るべきものというのが、通念でしょうか。法廷に立っている方もおられますが、最高裁内では評判がよくないと思います。もっとも、私は弁護士です。最高裁にちょっとの期間行って任務を果たし、本来の職務に戻ったという気持ちです。弁護士とは、生涯、一兵卒として第一線で働き続ける、そういう職業だと思います。法廷に出たい、あるいは交渉を担いたいという気持ちが高ぶっています。しかし、その暗黙のルールを破ってまで、今はやるつもりはありません。将来、担うにふさわしい仕事、やるべき事件があれば、引き受けるかもしれません。もっとも、経済的な理由のみで引き受けることは恐らくないでしょう。

司会 

時間も過ぎましたので、以上をもちまして、宮川先生の講演を終わらせていただきます。貴重なお話を、どうもありがとうございました。

(期成会『Wa』2012年第2号所収)

人権は「人間の証明」

―東京弁護士会人権賞受賞記念 特別講演―

平成9年1月20日
弁護士会館

豊田 誠(13期)

高木國雄(平成8年度期成会代表幹事) いわゆる水俣の全国連絡会の事務局長を務められ、実質的には水俣病解決の相当な部分を担われた豊田誠弁護士をご紹介いたします。私ども期成会は、夏にはHIV関係の活動をしている同じ期成会の弁護士の方を、あるいは官官接待ということが問題になるとそういう先生をお招きし、あるいは沖縄の問題が去年の初めから世の中をわかせてきますと、沖縄問題の活動家を招くなどしてきました。うまい具合に全部この期成会員の中で賄えるということで、大変その都度大きな勉強をしてまいりました。そういうわけで、きょうは先生の裁判内外の活動、あるいは裁判内外の活動を通しての、社会、経済、文化の国民的な大きな意味、評価というふうなものを加えて、いったい弁護士がどれぐらいのスケールの活動を率いることができるのか、あるいは影響を与えられるのかというあたりで、われわれの日常の弁護士業務にも、ひとつ応用点を与えていただければ大変ありがたいと思っています。どうかよろしくお願いいたします。

1 はじめに

今回、人権賞を受賞するにあたって、私も受けるか受けるべきでないかいろいろ悩みましたけれども、共に闘ってきた弁護士集団や被害者、支援、そういった人たちのことを思うと、やっばり私が受けたほうがいいという具合に最終的な決断をしたわけです。しかし、本当に人権賞に値するかどうか恥ずかしい限りです。

先日、期成会のほうから、「いま私たちがなすべきこと」という期成会の政策パンフをお送りいただきました。この装丁の立派さにも驚きましたけれども、期成会は司法の改革に向けて重大な政策を提起しているなということを痛感いたしました。この中で、クラス・アクションについては私は反対の意見をもっていますけれども、しかし、日本の司法を変えていく、しかも最高裁や法務省との間で対決をしながら変えていくというこの活動は、広い意味では人権の確立へ向けての大事業だろうという具合に思った次第です。期成会がこういった政策を出して弁護士会全体を変えていくという活動も、広い意味での立派な人権闘争の基本になっているのではないかという具合に私は痛感したわけであります。期成会の会員としては私は落第生です。結集は悪くて会費しか払わない。その私が期成会にこうした機会を与えていただいたことに、本当に気恥ずかしい思いをしている次第です。

期成会の方々は弁護士会の改革を中心に精力的に活動してきました。そして、期成会に加入している会員はさまざまな人権闘争に関与してきました。私が先日びっくりしたのは、いま「水俣病の裁判と運動の記録」の総集を全4巻でつくろうという作業をやっているわけですけれども、昭和42年6月に新潟で現代の公害訴訟が一番最初に提起されたときに、工藤勇治弁護士は同期なんですけれども、なんと彼が原告代理人になっているわけです。ですからそういう意味では、期成会に結集される会員の方々は会の改革だけではなくて、すべての人権闘争に意欲をもっているんだということを、私は彼の名前を見ながら痛感した次第です。

2 社会と人権

 水俣病との邂逅

ところで、私が水俣病を本気になってやる気になったのは、昭和59年3月27日のことです。どんなことがあったかと言いますと、前の晩に水俣協立病院の野中君という事務局の方が当時私がおりました旬報法律事務所を訪ねてきて、ぜひ川崎に一緒に行ってくれという話をされました。

川崎の工場街に近い、いわば労働者の街のど真ん中に、宮路澄子さんという方が住んでいました。私は水俣病のことはあまり詳しく知らなかったわけですけれども、しかし、見るからにこの人は病気だな、かなり重い病気だなということが索人目にもわかるような症状を呈していました。当時、熊本で裁判が既に始まっていましたので、こんなに身体が不自由ならどうしてあなたは裁判に加わらないのですかと尋ねました。そうしましたら、そのおばあちゃんが言うのには、「うちの主人は水俣病の認定患者なんです。そして、息子がちょうどいま婚約の話が決まったばっかりで、息子の婚約した相手方は都内の人なんです。もし自分も水俣病だということで裁判に加われば、おそらく川崎で一番乗りで名乗りを上げるわけですから、新聞にも出るだろうし、テレビも映すだろう。そうなったら、自分の息子の嫁さんになる方の実家の方々はどう考えるだろう。舅も水俣病のれっきとした認定患者。姑の私も水俣病だと言って裁判に名乗り出たということになると、舅、姑が二人とも水俣病患者だということになってしまう。そういうことになると、嫁にやる先から見ると、いわば看病のために嫁に出すみたいなことになってしまう。そうすると、結果としてはせっかくまとまった息子の緑談が壊れてしまう。そのことに私は耐えられないから、自分のいまの水俣病の病気の苦しみを我慢して、息子がもし結婚することができるのであればそっちのほうを選びたい。」こういう話しをされました。

私はその話を聞いていて、本当にガーンと頭を殴られたような気がしたんです。それはどういうことかと言いますと、川崎というのは革新市長の街、しかも労働者がいっぱいいる街で、水俣の現地から移ってきた患者が、自分の病気のことさえ口にすることができない。こんなに人権が抑圧されていていいものだろうか、ショックを受けるとともに本当に腹が立ちました。同時に、それを去ること17年前の昭和43年、イタイイタイ病の現地に入ったとき、そのときのことを私は二重写しに思い出しました。富山で近藤忠孝さんたちと一緒に青年法律家協会の弁護士が現地に入ったときに、農家の人たちはもし自分たちが裁判に打って出れば嫁の来手がなくなる、コメが売れなくなる、そう言ってみんな尻込みをして、昭和43年1月7日に東京からたくさんの若い弁護士が集まったけれども、誰一人として裁判をやろうという手を挙げなかった。

イタイイタイ病対策協議会という被害者の会の組織が、裁判をやるという方針決めていました。弁護士が行って、さあ裁判ということになると、具体的に誰が原告になるかということになるわけですけれども、とうとう1月7日には手を挙げる人がいなかった。その理由はいま申し上げましたように、嫁の来手がなくなる、コメが売れなくなる、これが農民たちを尻込みさせた最大の理由だったわけですけれども、その昭和43年1月の富山での思いを私は川崎で二重写しに思い出して、こんなことは絶対に許されることではないという具合に思いました。

川崎の市長は、川崎の民主勢力やさまざまな労働者の人権運動によって支えられて当選した革新市長だったと思います。民主主義や人権の発展、伸長のないところでは革新市長も生まれないでしょう。しかし、革新市長が生まれたからといって自然成長的に人権が育つものではないということを、私は嫌というほどそこで思い知らされたわけです。

その患者たちと会って、当時手ぐすね引いて何かやりたいと言っていたスモンの弁護団に働きかけて、その年の4月下旬に水俣へ行きました。現地調査に行ったわけです。当初は遊び半分でスモンも解決したし旅行でもしようかということで行ったわけですけれども、そこで私たち弁護士は、胎児性水俣病の患者をこの目で見ました。あまりの悲惨さ、これがいったい人間なのか、どうしてこんな人間が産業公害によってもたらされてしまったのか、本当に心の底から怒りが沸き上がってくるのを抑えることができなかったものです。

その胎児性の水俣病患者の延長線上に川崎で自分の水俣病も名乗ることができない患者がいる。そういう息者が万といるということを私たちは知りまして、斉藤一好団長もそのときに行ったと思いますけれども、酒を飲んだ勢いではなくて、真面目に議論をした。そして水俣の湯の児温泉で、結局みんな目の色を変えて、よしっ東京で水俣病をやろうじゃないかということになった。水俣の温泉旅館で水俣病東京弁護団を結成して、そして当時、名乗りを挙げていた6人を原告にしまして、5月2日に東京地裁に訴訟を提起するという、非常に早業でこの問題に取り組みはじめたわけであります。

救済は神だのみ

私が初めて鹿児島県の出水へ行ったのは昭和59年11月22日です。どうして鹿児島県に行くようになったかと言いますと、東京で私たちが接触をしていた患者は、ほとんどが鹿児島県の桂島という島から出てきていた人たちだったんです。都会へ出てきている方々ですら名乗り出ることができないという状況だとすると、現地はいったいどうなっているんだろう。当然疑問が湧くわけであります。そこで出水の現地に私ども弁護団が入っていくわけでありますけれとも、私は最初にその患者の人たちが集まったときのことは今でも忘れることはできません。本当にたくさんの人たちが集まりました。漁村の家という建物がありまして、その2階が集会場になっていました。たくさんの人たちが集まったんだけれども、全部後ろのほうに座りました。1人のおばあちゃんが1番前私の目の前に座っていました。

私は水俣病問題を解決するためには、皆さんが立ち上がって裁判をやるしかないということを、弁護士として懇々と訴えました。そのときそのおばあちゃんは何をしていたか。私の話を聞かないで数珠を持って、ナンマイダ、ナンマイダ・・・これだけなんです。結局、神頼みの心境になっていたわけです。だから弁護士がいろいろ道筋を話してもそんなことは頭に入らなくて、誰か自分を救ってくれる人が来たんじゃないかということで神頼みしているという雰囲気が、そのおばあちゃんの姿からひしひしと感じました。

これは後日談ですが、パンフレットをつくるときに写真の取材班が現地に行って祈願の石を見つけたわけです。汚染地域の水俣・出水という、この街の対岸のほうに長島という半島があります。この長島に行人岳という山があるんです。この行人岳の山の上に祠がありまして、その祠は漁民の人たちが大漁祈願だとか、安全の祈願をする、そういう祈願のためにカボチャ大の石ころに願い事を杏いて、それを供えてお参りする場所があるんです。そこに、「水俣病患者に決まりますように」「一生かかっています」という、昭和59年9月30日付けの、誰が書いたかわかりませんけれども、祈願の石があるんです。ですから、私の目の前で数珠を持って私の話を聞かずに、数珠でナンマイダ、ナンマイダとやっていたおばあちゃんも、祠に願を掛けた方と同じような思いが心の底にあったんだと思うのです。つまり、展望のないところでは人権の自覚というのはなかなか生まれてこないし、足を動かすという実践も生まれてこないのです。そういう展望のないところでは神頼みにどうしてもなってしまう。そういう非常に追い詰められた状況が出水の患者の中にはあったんだろうという具合に思います。これは何も出水だけではなかっただろうという具合に思います。

差別と中傷の中で

そういう展望のないところでは、どうやって闘うかということもはっきりしないし、神様にお祈りしてすがりつく、こんな雰囲気だったわけですけれども、弁護団が入って裁判をやって闘うことの必要性を訴える中で、被害者の人たちも少しずつ変わってきました。最初は保険を掛けるつもりで、1ヵ月1,500円の団費を払えばやがては補償額がいくらかで返ってくる。一種の保険だなといって、そういう軽い気持ちで人った人もいるかもしれませんが、だんだん何回も何回も患者の人たちと交流するうちに、患者の人たちの重い口が開くようになってきました。この患者の人たちは街の中で大変な差別と中傷を受けていたわけです。当時は裁判に打って出る人というのは熊本の弁護団が扱っていた200人ぐらいしかいなかったわけです。あとはどうしていたか。行政(鹿児島県)に対して、私は水俣病である、そのことを認定してくださいという認定申請を出す。県は「水俣病ではない」といって棄却してくる。再申請する。また棄却される。その繰り返しをやっていたわけです。認定申請、棄却。申請、棄却。申請、棄却。そのうちにどこかで当たるかもしれない。いわば宝くじみたいな、そんな他力本願的な思いでみんなやっていたんです。それもこっそりと隠れてみんなやっていたんです。被害者の会の事務局長はそのことを世話してきましたけれども、周りの人たちに自分が申請しているということはできるだけわからないように伏せておく。慢性の水俣病の患者というのは、外から見ると健康人とそんなに区別がつかないわけです。もちろん仕事もできる。したがってそんなにお金が欲しいのか、お前は偽患者じゃないかという話がひろがって患者が孤立させられる。そういう状況がずっとつづいていたんです。

しかも、水俣病の闘いを振り返るときに非常に不幸な事態が起きてしまった。4大公害訴訟のときに水俣病は勝訴するわけです。昭和48年3月です。48年3月に4大公害裁判の1つとして、勝利判決を取って、協定書をチッソとの間で結ぶわけですけれども、そのプロセスの中でいわゆる「告発」といわれている暴力を振るう集団が、全体の連帯した運動を壊してしまうんです。昭和48年3月、4大公害訴訟の熊本の判決があるまでは、熊本県の当時の総評、社会党、共産党、すべての民主団体が入った熊本県の共闘会議がありました。ところが判決の直前になると、「告発」といわれた、当時黒い装束を着て跋扈していた集団が、東大などから来たやり手がおりまして、そういう人たちが大変な力を持っていて、そして「裁判闘争に水俣病の闘いを矮小化するのはけしからん」「裁判で勝ったって水俣病は治らないし解決しない」「だいたい裁判闘争に水俣病問題を矮小化しているのは弁護団だ、けしからん」と言って、弁護団排除の動きを判決の直前にやるわけです。

東京の丸の内郵便局の隣にチッソの本社が昔もありました。いまでもあります。その本社の前で判決を受けて、チッソに対する要求行動を組織して、当時、総評の宜伝カーがチッソ前に乗り着けて、それでチッソの社長に対して要求を突きつけようとしましたときに、その「告発」の暴力的な集団が竹竿を持ってきて殴りかかってきたんです。総評の幹部もそれで怪我をする。弁護団も傷つけられる。とうとう弁護団排除のままで当時の自主交渉が行なわれた。それに全体がもう嫌気をさしちゃって、もう水俣病はやめたといってみんな潮を引くように水俣病の支援から手を引いていっちゃう。それは昭和48年です。結局最後に残ったのは共産党だけだった。共産党だけが水俣病の支援をコツコツとつづけてきた。そのことが逆に、地域の人たちには水俣病の闘いは共産党の運動だと、こういう具合に理解されてしまったわけです。確かに共産党しか支援していないという状況の中で私たちが鹿児島に入っていくわけです。私にはあまり質問はなかったんですけれども、尾崎弁護士あたりには当時の鹿児島の労働組合の幹部から、君たちの弁護団の性格はどうだというような質問があったんじゃないかと思いますけれども、私たちがどれだけ幅広くやろうと思っていても、そういう歴史の過去を引きずっているものですから、なかなか運動が拡がらないという非常に困難な時期がありました。

運動の輪を広げて

鹿児島の患者を東京地裁に提訴するときに、鹿児島の弁護士会が挙げてわれわれと一緒に闘わなければいけないという方針を決めまして、鹿児島の弁護士会の全会員に水俣病の東京訴訟の代理人になってくれということを依頼しました。いま100歳近くになる山下さんという弁護士、この方も代理人になりました。結局鹿児島弁護士会の過半数、70名ぐらいいて35、6名ぐらいが代理人になったんです。鹿児島の弁護士会も支援しているということで出水の運動に入っていくわけですけれども、それでもやはり東京の弁護団はよそものでした。よそから出水の静かな街に入ってきて、この街をかき回すのではないか。あの弁護団はどこかの政党の下請けをして、またここで何かやるんじゃないか。こういう目でずっと見られてきたんだと思うんです。これを克服していくのは本当に大変なことで、つらい長い時間がかかったわけですけれども、その局面を切り開いたのが2年後の水俣病を考える「出水市民千人の集い」でした。集会の位置つけをどうしようかと考えるとき、私たちの発想だとすぐ水俣病を支援する集会にしようという具合になりがちなんですけれども、水俣病を考える集いにしよう、しかも市民中心の集会にしようということで、水俣病に疑問を持っている人、反対する人も全部来てくださいと呼びかけた。本当の話をみんなでしようじゃないかということで呼びかけた集会が昭和61年11月27日の、東京弁護団が出水に入ってから2年後の集会になります。

この集会は画期的に成功しました。出水の街は人口4万です。4万の街で1000人の集会、これは文化会館の大ホールを全部埋めつくしたわけですけれども、そこで私たちも水俣病を支援してくれということを言わないで、水俣病というのはこういうものなんだということの事実の訴えを中心にやりました。この61年11月の市民の集いをきっかけにして、街の雰囲気が変わりました。私たちは出水に行くと、いろいろなところでいろんな情報が入ってくるわけです。弁護団はこうだとか、ああだとか、いまこういう動きがあるとか、そういう1つ1つの街の情報も蔑ろにはしませんでした。町の空気が変わったということを、肌でだんだん感じるようになってくるわけです。

そうしますと、被害者の人たちが今まで神頼みで、足が竦んで前に出なかった、あるいは認定申請という手続きをするのにも人に隠れてこっそりやっていたのが、今度は自分の足で行動に出る、患者の人たちは出水市の中で一番人通りの激しいスーパーの前でビラまきをやるようになりました。これは大変な変化なんです。患者の人たちが水俣とか出水から東京へ出てきてビラまきする分にはちっとも恥ずかしくないんです。やれと言えばやるんです。だってもらう人は全部誰も知らない人ばっかりですから。ところが地元でビラをまくということは、自分が患者だということを名乗るわけですから、たすきを掛けてやるわけですから、どこそこのおばあちゃんに顔を合わせた、どこそこのおじいちゃんに顔を合わせた、ということになるのです。

ですからそういう意味では、意識ががらっと変わらなければできないことだと思うんです。そういうことをとうとうやり出すようになってきました。その患者の人たちがそうやって動きだすことによって、また支援の輪が拡がっていくという相関関係が生まれてきました。自分の足で動くということが、私は闘いの原点だろうという具合に思います。

それは弁護団も同じだと思いますけれども、自分たちが現地に入って、そして本当に被害者の苦悩を一緒に味わって、どうやったら足が前に出るかということを一緒に考えて、そして患者の人たちの足を一歩でも前に出させてあげることが私たちの役割だと思いますけれども、その患者の人たちがとうとうそういう集会などを契機にして竦んだ足を一歩前に踏み出すことになったわけです。それが運動をぐんと拡げていく。とうとう出水市議会で水俣病に関する決議を取っていくわけです。武家屋敷のある保守的な街の中で水俣病の問題に市民の目が向いてきた。被害者が市議会に訴えにいく。そういうことができるようになってきたということは、大変な変化だという具合に思います。それは被害者自身が自分で足を前に出したからなんです。被害者が足を前に出すについて弁護士がそれをちょっと介添えしてあげたからなんです。

人権は生き物

私は人権というのは生き物だと思っています。育てれば育つし、育てなければ死んでしまう。そういう意味ではどんな人権でも、とにかくそれを自覚した人たちがみんなで育て上げていかなければ決して生きた人権として育っていかないだろう。そういう意味では、ことしは憲法50年を迎えるわけですけれども、憲法の中にはさまざまな民主的な条項とか、人権保障条項があります。裁判所の判断が悪い、政治が悪いということだけでは、私はこの憲法50年の年は乗り越えられないと思います。私たちが主体的にその人権をどこまで育て上げて、いま何が問題なのかということを、法律家であるわれわれ自身が、この50年の年に改めて問われることになるのではないか。いったい憲法の実践を私たちはどれだけやってきたのかということを、私たち自身が吟味され点検される年になるのではないかという具合に思っています。

人権は生き物と言ってしまうと非常に抽象的になってしまうんですが、水俣病弁護団は足掛け12年やってきました。来る日も来る日も水俣病。かかってくる電話はマスコミか水俣病の関係かどっちか。そういう日がずっと続いてきました。尾崎弁護士が鹿児島へ通った回数は去年の秋までで437回になります。私は328回。10で割りますとだいたい尾崎弁護士の場合には年40回ぐらい、月3回。そして1回行くとだいたい最低1泊、多いときは2泊から3泊。それを全部手弁当、持ち出しでやってきた。どうしてこんなことをやることができたのか。また、やらなければいけなかったのかということを考えてみますと、私はやっぱり患者の人たちの生きざまが次第、次第に変わってきている、自分たちの運動の中で変わってきている、そのことを体感できたからではないかという具合に思います。

例えば、水俣病で漁しかできなかった漁師の人たちが、霞が関の環境庁の前で宜伝カーの上からスピーカーで堂々と演説をする。こんなことはつい6、7年前には考えられもしなかったと思うんです。しかも、霰が関でビラまきをやるにしても、だいたい水俣病の患者は四肢末梢の感覚防害がありますから、1枚1枚めくるのが非常に苦手なんですね。感覚障害があるから1枚をどうやって取るか。特に雨の降る寒い日なんていうのは、本当に私たちですら嫌なのに、あの節くれだった太い指で1枚1枚取って、「水俣病です。よろしくお願いします」これをやる。私たち弁護団は患者の人たちが病に侵されたうえに、しかもこういうことまでしなければいけないのかという思いにかられたことはもちろんですけれども、同時に今まで神頼みでこっそりと隠れて自分さえ認定されればいいという具合に思ってきた人たちが、名乗り出て街頭で自分の病をさらしている。この変わりように私たち自身は大きく励まされたという具合に言っていいと思うんです。

人が変わる。その人が変わっていく姿を現実に目の当たりにして、いわばドラマを見るような感じで私たちのくたびれた思いを叱咤激励した。山下蔦一さんという元チッソの工場で働いていた労働者がいます。この人は自分が工場で働いていたときにアセトアルデヒドを含んだ排水を自分が垂れ流しているわけです。そして、自分が垂れ流してしまったその排水によって、自分の両親や妻や自分も水俣病に侵されてしまった。山下さん自身はそんなに軽い患者ではありませんが、しかし聞くところによると、お父さんやお母さんというのは、涎を流し苦しんだ重症の、しかし水俣病と認定されないまま死んでいった患者なんです。そういう過去を彼は引きずっているわけです。

誰かニューヨークの国連に署名を持って行ってくれないかといったときに、とてもニューヨークまでは10何時間飛行機に乗っていくのは身体が持たない、死んでしまうと言ってみんな尻込みした。そのときに山下さんは俺が行くということを決意する。ニューヨークに発つ前の日に、東京あさひ法律事務所に寄りまして、「先生、今からアメ横へちょっと寄って、それから旅館へ帰ってあした成田から行きます」と挨拶に来ました。何のためにアメ横へ行ったんだろうと思っておりました。そしたら、彼は自分の孫たちにアメ横から形見の品を全部送っていたんです。飛行機事故ということはもちろん考えないわけですけれども、ニューヨークヘ行く行程の中で死ぬかもしれないという思いで、アメヤ横丁であまり高くもないお菓子だと思いますけれども、孫たちに全部形見の品物を送っている、そして成田から飛んでいきました。

そういう話を聞くと、私たちはじーんとくる。この人たちはそこまでして闘っているのか。これは放っておくわけにいかない。そういう思いにかられたものでした。そういうドラマというのは、いっぱいあるんです。

患者の人たちが、神頼みで自分さえ良ければという思い、それがやがて裁判という形で連帯して闘う、外へ出て、自分たちが恥をさらして訴える、こう変わっていく。非常に特徴的なことは最後の解決の場面でした。政府の提案した金額はわずか1人260万円。裁判原告の2000人も260万。裁判をやらなかった人も260万。この政府の解決案に対してどう対応するかということが、この人たちのいわば人権感覚がある意味では吟味された。それは弁護士である私たちもそうです。患者の中には「私たちは今まで裁判をやってきて会費も出してきた、ビラもまいたり、東京へ行ってエネルギーを使って、暇も潰してきた。それが何で裁判をやらない人たちと同じ260万円なのか。これはおかしいじゃないか」という議論はありました。出水の漁民の人たちは水俣病に罹っているとは言いながらも、例えばエビの漁に行くと一晩で4万円も水掲げがあるんです。ボラの漁なんかに行くと10万単位の水揚げがある。もちろん1つの船ですけれどもあるわけです。それを放っぼり出して東京へ来て、労働組合とか民主団体に訴えて歩いたり、ビラを配ったりしてきた人たちなんです。裁判をやらない者と同じような解決だったら、何のために裁判をやったのか。裁判をやった人たちのほうが損したじゃないかという議論が当然ありました。

しかし全体の議論は、自分たちが闘ったから、闘わない人たちにも同じような救済の道を開くことができた、それを勲章にしようじゃないかという意見が圧倒的な多数意見だった。圧倒的部分は、むしろ、自分たちの闘いによって政府を変えることができた、勝ち取った260万は確かに少ないけれども、それは自分たちの運動の力量が反映したのではないか。自分たちが闘ったからこそ自分たちもわずかではあるが260万もらえたし、闘わなかった人たちも同じように260万もらうことになったんじゃないか。そのことに誇りを持とうということだったのです。この考え方は私は立派に人権意識が成長している証だろうという具合に思います。

ちなみに、水俣病は2000人の原告を組織しました。最終的に、いままだ救済事業をやっていて、この3月の終わりでだいたい終わるわけですけれども、救済する数は全部で1万1000名になります。弁護団は2000人分からはほんのわずかの報酬がいただけるんですが、あと9000名については弁護団はただ働き。最終決断のときの議論に示されたように、私はこの患者の人たちが40年の水俣病の歴史の中で苦しみ抜いて、いろんな道程を経ながら、最後には国民の人権を守るというところまで成長しきった姿を見ることができるのではないかという具合に思うわけです。そういう意味では、この水俣病の闘いに参加して私は非常に幸せだったと思っています。

3 司法と行政

水俣病裁判のひきがね

ちょっと話題を変えますけれども、水俣病の裁判はいわば行政が司法を無視したところから始まった、極端に言えばそう言っていいと思います。これが水俣病国家賠償裁判の引金になっているわけです。水俣病をどう捉えるかというのは非常に難しい「医学」論争を含んでいます。ですから政府が、あるいは行政がどこまでを水俣病と決めて救済するかといったら、行政がその判断に基づいてやるのは勝手なんですけれども、それがあまりにも狭すぎた。そのためにそこからこぼれる人たちが圧倒的に多かった。この人たちが裁判をやった。これは第二次訴訟といいますけれども、この裁判で勝った。裁判で勝てば行政は反省をして認定の基準を変えて拡げてくれるだろうという具合に熊本の人たちは期待しました。ところが行政は開き直っているんです。「司法の判断と行政の判断は違う」と。これで片づけられてしまいました。そこでせっかく裁判で勝ったんだけれども、司法の判断を行政が無視した。それならばいっそのこと国の責任そのものを追及しようじゃないかというとで、国家賠償の訴訟が始まるわけです。

裁判所のこれまでの公害事件の判決を見てみますと、行政に追随してきた判決がいっばいあります。司法官僚による司法の統制が行政追随型の司法を形成してきたことは否めない。司法が、最高裁判所を頂点として自らをそういう具合に育ててきた。その結果として、行政を裁くような判決が出ても裁判所は無視される。行政が逆に裁判所を無視してしまう。一番特徴的なことは、水俣病では東京地裁から始まって5つの裁判所が和解勧告をしました。最高裁が主導して和解勧告をさせているのではないかという見方もありましたが、それは全く事実に反します。私たちが裁判所を次から次へと口説いて和解勧告を次々と出させていったわけです。最初、1つじゃ足りないかもしれないけれども、2つぐらい裁判所が和解勧告すれば行政は解決に乗り出してくるだろうと、非常に甘く考えていました。ところが行政のほうは、現段階では和解には応じられないということを閣議で決めてしまって、その後一切裁判所の動きを無視。福岡高裁も含めた5つの裁判所が和解によって解決しろ、話し合いのテーブルに着けといっているのに、行政は一切これを無視してしまった。

私は、これは司法自体が行政追随の体質を自分たちでつくってきて、その結果として自縄自縛になっているのではないかという具合に思っています。そこから司法を国民の場に戻す作業がいま必要なのではなかいと思いますけれども、いずれにしましても、水俣病裁判の引金になったのは、言ってしまえば司法の判断を行政が徹底的に無視してきた。それは認定基準のところだけじゃなくて、和解の勧告のところもそうだし、あとで触れますが、最後の解決のところでも、環境庁の役人が最後にどう言ったかというと、裁判所へは死んでも絶対行きたくないと。裁判所を徹底して無視する動きを彼らはしてきたわけです。

裁判の位置づけ

私たちは水俣病の裁判を起こすときに、裁判の位置づけについて十分議論いたしました。これは判決で勝って、その勝った判決を基本にして国や企業との間で協定書、あるいは確認書を結んで解決していくという方式です。私たちはこれを「司法救済システム」といっているわけです。どうしてそういう具合に考えたかと言いますと、例えば、判決で勝って、それが確定しても医療費は出ないんです。年金は出ないんです。被害者の要求のなかで、補償の一時金は確かに―つの大きな柱です。しかし、それと同じぐらいの重さを持っているのは、医療費の要求であり、年金の要求なんです。判決でいくら高額の賠償金を取っても、逆に言えば高額の賠償金を取ればとるほど医療費や年金は当たらない。こういういまの法理論的な矛盾にぶつかるわけです。ですから、判決の主文には盛り込まれない被害者の要求を実現するために、勝訴判決を確定させることではなくて、判決をテコにした解決をするしかないのです。それが最終的に、今度の政府の解決策でどうなったかということですが、基本的には私たちの考え方を政府が受け入れたという具合に思っています。

世論を変えた大量提訴

この裁判を闘うにあたって、1つの大きな困難は、水俣病は既に終わったという世の中の認識が非常に強かったことです。何しろ昭和59年5月2日に東京地裁に提訴したときに、東京湾で水銀の汚染問題があったのかと言った人がいるわけですから。また新しい水俣病が東京湾で出たのかという具合に言った人がいるくらいに、熊本の水俣病の問題はとっくの昔の話だという具合にみんな思ってきていたわけです。そういう世論を変えなければ判決で勝つこともできないし、運動で勝利することもできないということから、私たちは原告の大量提訴を考えました。水俣病は終わっていないんだという事実を社会的に明らかにするためには、これだけたくさんの原告が救済を求めている、という事実を社会的に突きつけるしかなかったわけです。そのために大量集団提訴という方針を決めたのです。その大量の集団の原告を組織するのには、まさか委任状を持ってきたから全部原告にするというわけにもいかないわけで、医者の診断でスクリーニングを通さなければいけない。医者の診断をしてもらって、原告になってもらう。

この大量の原告を組織していくためには、本当に弁護団が苦労しました。東京では最終的に30名の患者しか、私たちの力不足で組織できなかったわけですけれども、昭和37年にチッソの大合理化が行なわれました。その大合理化が行なわれたのはチッソが石油化学に転換するために、その石油化学に転換した後、千葉県の五井工場に主力を移すための合理化だったわけです。いわゆる日窒闘争が起き、労働組合はとうとう第一組合と第二組合に分裂してしまいました。労働組合が分裂して水俣工場から大量の労働者が千葉の五井に移ってきた。その名簿を頼りに手紙を出して、いついつ五井工場の近くのどこそこで検診をやりますから来てくださいという宣伝やオルグもやりましたけれども、結果的には会社の圧力があったのかどうかは知りませんが、東京では30名しか組織できませんでした。しかし、その東京の30名を組織するのも実に大変な苦労だったのです。

被害の一番激しい現地の出水や水俣でも、そう簡単にすぐ委任状に名前を書いてくれなかった。弁護士が1軒、1軒患者の家を訪ねていって、医者のスクリーニングであなたは感覚障害があると、あなたは水俣病なのだから一緒に闘おうと、オルグをした。こうした弁護団の努力は、昨年9月号の『法律時報』の、京都の中島晃弁護士の論文で紹介されています。この論稿は、弁護士が依頼者を獲得するために勧誘をするのは弁護士倫理に反するのではないかという疑問にも答えて、反論しています。これは水俣病の弁護団の中でかなり議論をしました。私たちはオルグをやりました。それは人権を侵された人たちを放っておくことができなかったからです。

京都でも水俣病訴訟が提起されたのですが、京都に集中的に患者が移っているわけじゃない。京都は名古屋から広島までの区域に水俣湾周辺から移ってきた人たちを、京都の弁護団が組織したんです。ですから、これは大変な努力だった。もともと都会に移ってきている人たちはどこそこの誰それはどこにいるとか、お互いに情報網を持っている。しかし、そんな個人的な情報には限度がある。大量提訴なんかできないんです。そこで、つぎには現地のほうから、息子やおじさんはどこに移っているのかということを全部調べ上げて、そのリストをもらって手紙を出すという形で大量提訴の取り組みをやってきたわけです。水俣病の人権闘争で言えば、弁護士集団が優れたオルガナイザーになったということが言えるのではないか。

医師団の力も必要なことでした。全国から集まった100人の医者と看護婦の力をかりて、1088人の一斉検診をやった。これはとにかく滅法珍しい取組みだった。患者に検診を受けてもらって、感覚障害の認められる者を訴訟の原告に加えていく。そういう方針でやってきて、それでやっと原告が2000人になりました。

最終解決の段階で総数はいくらになるだろうかという議論がありました。私は司法救済システムのもとでは、5000プラスマイナス1割だろうと言い切ってきましたが、非常に私の読みが甘かったということです。救済対象は、なんと1万1000人になったんです。換言すれば、私たちは裁判闘争をやって2000人を組織して闘ってこういう成果を取ったけれども、9000人の人たちがまだその周りでこの人権闘争、裁判闘争に参加してきていなかったということに、私は反省させられる思いでいます。ともあれ、大量に原告団を組織していくというのは、世論を変えるうえでは非常に役に立ちました。

和解と解決

私たちは裁判所で「和解」によって解決しようなんて考えたことは1回もありません。話が述うんじゃないかと、こういう具合に思うかもしれません。私たちは「解決」をすると言ってきました。「和解」という言葉はどうしてもお互いに譲り合って、そしてどこかで妥協点を見出していく、こういう図式に考えられがちです。

確かにお金の問題については譲り合うことができるかもしれせまん。しかし、水俣病であるかないかという問題については譲ることはできないわけです。譲り合ったって中間の概念はないわけです。民事訴訟法には「和解」という言菓しかなく、「解決」という言葉がないので「和解」という言葉を使うけれども、私たちの真意は判決に基づいて「解決」をすることだと、終始一貫言い続けてきました。裁判所が和解勧告をしたときに、私たちはことさら解決勧告、解決勧告と言ってきました。譲り合って決めるのではなくて、判決のこれまでの考え方をべースにして、それで解決の確認書をつくろうじゃないかということです。

この場合には、訴訟で対立する争点についてどうやって解決の合意にたどりつくのかという問題が当然起きてきます。そのことを予想して、私たちは東京地裁が和解の勧告をする前に、熊本県やチッソとの間で議事録確認をしました。訴訟ではいろんな争点があります。水俣病かどうか、責任を担うかどうか、一時金を払うかどうか、どれくらい払うか、医療費はどうするか、そういう争点がいっばいあります。その争点については双方の主張と判決をもとにして、それを公正な第三者が調整した意見を出す。それで解決しようじゃないかということを提案をして、これを熊本県との間で議事録確認という形で決めました。争点についてはお互いに譲ることができないわけだから、公平な第三者が決める。それを元にして解決していく。私たちは判決でいけば必ず勝つ、こういう見通しがあったから公正な第三者というのは裁判所のことを考えていたわけです。したがって和解勧告が出てから裁判所の出す和解の案については、私たちは公正な第三者が出した所見だから、これをお互いに尊重して解決しようと訴え続け、運動してきたわけです。最終的には政府が解決をするかどうかという決断にまで焦点が絞られました。最終的な解決は、結局、連立与党が私たちの意見を入れて解決を決断し、政府もやむなく解決せざるを得なくなったのです。水俣病ではないと行政がいってきた、救済する必要がない、救済は終わっているんだ、もう何もやることはない、こういうことをいってき政府の方針をひっくり返したのです。解決策のなかに水俣病という三文字そのものは使っていないんですけれども、有機水銀と相関がある、偽患者ではない、有機水銀の影響を否定できない、つまり、水俣病と事実上認めて救済をするという形で連立与党が決めて、そして最終的な政府解決案になっていったわけです。

激烈な最終局面

政府の最終的な政策の転換を図るときの局面は激烈でした。連立与党といっても考え方が全部違うわけです。自民党は環境庁の言いなりです。当時の社会党は、私たちの立場を非常によく理解してくれた。だから村山内閣のもとでの連立与党のプロジェクト会議では、自民党と社会党が猛烈に議論をやった。私たちは社会党の議員の部屋で待機している。自民党の議員の部屋には環境庁が待機している。そして連立与党の会議が休憩に入ると、いまこういうことが論点になっている、どうするかと議論をする。ですから熊本日日新聞が、政府与党のプロジェクトチームにおける自民党と社会党の対立は環境庁と全国連の代理戦争だという具合にいった<らいなんです。最後の最後まで、実は救済するということが決まってから最後の最後まで揉めたのは、私たちは「裁判所で解決をする、これは絶対に譲れない。もしそれが駄目だというならば政府解決案は全部吹っ飛ばしてくれ」ということだったんですが、環境庁は、先ほどもちょっと言いましたが、「死んでも裁判所へは行きたくない」とがんばった。結局最後の折り合いのところが、訴訟をやっているグループについては裁判所で和解をする。訴訟をやっていないグループについては行政的な手続きで救済する。そういう形で決着した。

環境庁の抵抗は本当に最後の最後まで激しかった。環境庁は非常に露骨な嫌らしい話を随分社会党の議員にはしたようです。訴訟の場で解決をするということになると儲かるのは弁護士と医者だ。何でそんなことをやる必要があるんだということだとか……。本音は、弁護団や被害者や住民団体が主導して解決のルールをつくるということについては、環境庁としては絶対に譲るわけにいかないという思いだったんだろうと思います。

最終的な局面の段階では、誰を救済するかは裁判所が決めるべきだ。ちょどいまのHIVと同じ形式であり、スモン訴訟では経験済みの方式だったのですが、救済を希望する人は訴訟を起こして、裁判所がその書類を審査して救済をするかどうかを決めていく、ということを私たちは提案していた。環境庁は、裁判所には死んでも行かないという。それで結局2つに二分して、裁判をやっているグループは和解。そうでないグループは行政的な手続き。救済対象者の決定は、判定検討会というのは行政的なシステムで、振り分けをするということになった。連立与党の合意がおととしの6月だったのですが、国会の会期末近くなって、このままだったら水俣病の解決はお流れというところまでいったんです。そういう状況だったから政治解決は非常に困難ではないかという具合に思われてきていたわけですけれども、最後はやっばり闘いの力だったと思います。

具体的にはどういうことかと言いますと、おととしの5月下旬に、環境庁前で3日間ぶち抜きで「水俣スリーデーズトーク」というのをやりました。朝から晩まで3日間ぶち抜きで。これには法律家団体の方々もかなり出席していますし、学者、文化人も出席してみんないろんなスピーチをした。HIVの川田龍平君もあの集会に来て彼は涙を流して訴えている。初めて外へ出て闘うということの重要性を彼は自覚したという具合に聞いています。そういう3日ぶち抜きの環境庁前の大演説会をやりました。これでとどめを刺した。そして加藤紘一議員(自民党政調会長)が最後は、よしこれで行こうと決断する。訴訟をやっているグループについては和解で決めるというところで収めた。

4 人権と司法

私はそのプロセスを見て、とにかく裁判所は最高裁を頂点にしてこれまで行政追随の判決を出すなどの姿努を示してきた。しかし、行政はというと司法を全く無視しているじゃないか。例えば5つの裁判所の和解勧告をコケにされるなんていうのは、司法の権威失墜も甚だしい。結局自分たちがそういう種を蒔いてきてしまったのではないかという具合に思うわけです。そういう意味では、司法を行政追随からもう1回国民の立場に戻す。もしそれができていればあるいはもっと裁判でわれわれのほうがうまく解決できたかもしれない、そんな思いもちらちらいたします。

最後になりますけれども、期成会の政策の冒頭に、「耳慣れない法化社会という言菓が市民権を得ようとしている」と指摘されている。法化社会と弁護士活動については、京大の田中成明教授が『自由と正義』の昨年12月号にかなり詳しく書いています。私は田中教授の文章の中で非常に気になるところがあります。「評価が難しいのは最近では水俣病三次訴訟やHIV訴訟など、国を被告とする政策形成訴訟でも訴訟上の和解による解決が目立つようになっていることなどを見ると、この問題は今後の司法政策のあり方を論じるうえで極めて頂要だと思われる。」ここまではいいんです。そのあと、要するに田中教授は、裁判所でそういった問題を解決していくということになると、フォーマルな裁判所の判断とインフォーマルな当事者の交渉、これがうまく組み合わされなければいけない。ところが、「裁判官の過重負担、弁護士や当事者の能力不足などのため」に、本来、法に基づいて判決をするという訴訟の性質が変質してしまうのではないかというのを憂いているわけです。弁護士の中にもこのような方向を支持する意見も見られる、これは「“法的なるもの”の拡散と『法の支配』の核心部の空洞化がもたらされかねない」というのです。結論だけ言えば、私は、大量の集団訴訟で1つのルールをつくって、司法の場で司法の判断も借りながら、住民の要求に基づいて解決していく、それは行政の怠慢によって「空洞化している」法の支配を訴訟によって穴埋めしていく過程であると考えます。これは機会があったら弁護士として十分議論しなければいけない課題であると思います。

併せて、クラス・アクションについて私は必ずしも賛成しないということを言いました。確かに、大量に発生した被害者の人権を守るためには、全員について判決を取るということは不可能です。そうだとすると、誰でも考えることですけれども、判決のパターンがあって、お互いに司法判断を尊重して、それに甚づいて解決をしていく。当たり前の話だと思うんです。4大公害訴訟の歴史はそれをイタイイタイ病以来やってきたし、薬害のスモンでもそれをやってきた。HIVもいまそういう形で解決は進んでいっているわけです。そういう意味ではとにかく大量集団訴訟の処理については、私たちの中にはもう既に立派な経験がいっぱいあり、クラス・アクションを無限定に導入することは、百害あって一利なしと思っているのです。

『自由と正義』の昨年1月号に、私は、「人権と自治の開化を求めて」という小稿を書き、その中で、「縦柚と横軸」論に触れました。縦軸というのは人権闘争。横軸というのは国民的なニーズに応えた弁護士の活動です。これは要するに縦柚がきっちりしていないと、この横軸はどんなに拡がっても意味はない。コマが倒れてしまい、弁護士の自治がなくなり、日本の民主主義がなくなるという具合に私は思っています。縦袖の人権闘争というのは、冒頭に申し上げましたように、個々の具体的な人権闘争だけに歪曲して狭く考えるのではなくて、期成会の皆さんがこの政策に書かれているような、日本の司法の民主化とか開かれた司法、そういったものを目指す闘いもまた立派な人権闘争の基本的な柱になるんだと思っています。

随分長くなってしまいましたけれども、最後に裁判所の役割をどう考えるかということについて、日弁連の『自由と正義』なんかを読んでいますと、どうも紛争解決の処理、そこに重点が置かれているような気がする。早期に紛争を解決する。それも確かに、例えば手形の事件とか、借地借家の事件とか、それは早期に解決しなければならない問題もあるでしょう。しかし、例えば人権闘争だったら、私はそれなりに時間がかかっても、その中でみんながいろんな壁にぶつかって被害者や住民が成長していく、そのこともまた大事なことではないか。そういう意味では、裁判所の機能として紛争解決機能に重点をあまりにも置き過ぎてしまうと、人権運動の芽生えも摘まれてしまうのではないかと危惧します。まさにいろんな苦労の中で、長い闘いの歴史の中で、その実践を通じて被害者は人権感覚に目覚め、その人権運動が成長していくんだという具合に思うからです。

最後になりますけれども、人権闘争を担うものの人権、これはどう考えたらいいのか、言うことはやめます。(笑)

非常にまとまりのない話しになりましたけれども、期成会の皆さんの優れた政策闘争、人権闘争、それが今回私に人権賞を与えてくださった―つの大きな基盤になったということを感謝申し上げて、私の話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

意見交換

朝倉正幸(司会) あと予定している時間が30分ございますので、質疑、意見交換を随時させていただきたいというふうに思います。

それでは水俣病の弁護団長をしておられた斉藤一好先生が見えておりますので、口火を切っていただけますか。

斉藤 まず東弁人権賞おめでとうございます。ひと言、東京弁護士会にはまことに申し訳ない意見だと思うんですけれども、洛陽の紙価を高からしめるという古い言葉があるんです。今から2千年ぐらい前の昔の中国で、有名な詩人が『三都賦』という歌をつくったところが、それで印刷が非常に殺到して首都の洛陽の紙の値段が上がったという故事がありますけれども、私は東京弁護士会として公害問題で初めて人権賞を豊田弁護士にあげることになったということは、逆に言えば、東京弁護士会の人権賞の株がぐっと上がった、このために上がったと言ってもいいと思うんです。特にこの東京弁護士会の人権賞を契機にいたしまして、先ほど非常に感銘深いお話しをいただきましたけれども、このことがやはりわれわれ弁護士のこれからの人権闘争に対する大きな励ましになるというふうに思いまして、今度の豊田弁護士の受賞を非常に喜んでおります。

私は弁護団長の席を汚しておりましたし、豊田さんから見れば、ちょうど修習生としては10年先輩になるわけですけれども、一緒に闘ってきた立場としては、私が豊田弁護士のお弟子さん、そんなふうな思いでもって、あとをくっついてきたというふうな感じがいたします。そういう意味で非常に、特に先頭に立って被害者の中に入って、そしてそれこそ身を粉にして12年闘ってきたということを目の当たりにしておりますから、きょうのお話しも非常に感動を持って伺ってまいりました。それにしましても、やはり語り尽くせない、逆に言えば水俣病の闘いの中には、先ほどちらっと出ましたけれども、告発グループなどの、ああいう足を引っ張る運動もあったわけです。そういうものがあったりして、それを克服してきたということがありますから、やはりプラス面だけでなくてマイナス面がどこにあったかということもわれわれが反省してみる必要があると思います。

先ほど指摘されましたけれども、闘いが終わって実際にこれからこれを総括して、そして報告書をつくろうということでいま作業を進めておりまして、それが実際にはことしの5月1日を出版の目標にしてやっていますけれども、それが果してうまくどこまでできるかどうかわかりませんけれども、この作業も非常に大事だと思うんです。期成会の皆様方にお願いしたいことは、やはりわれわれの期成会の仲間で豊田さんのような素晴らしい人権の実践を果たされた方がここにいるわけですから、私たち大いに学んで、そしてこれから、いま非常に政治的な、あるいは社会的な、経済的な日本の情勢は非常に危機的な状況といわれておりますから、そういう意味ではこれを教訓にして大いに一緒に勉強し、かつ闘っていきたいと思うんです。

西嶋勝彦 1つは、尾崎弁護士の鹿児島400回余の話はとても信じられないことです。どういうふうにしてやってこれたのか。そこまでしなければ本当に解決はあり得なかったのか。もう1つは、豊田さん自身が、この解決の時期、中身について朧気に想定されていた時期、中身と解決の時期、中身とちがうのかどうか、最初から見通すのは無茶な話なんですけど、率直にお聞きしたい。3つめには、公害事件というのは疫学的手法を活用しなければどうしようもないということで、民事的にはそうでなければ科学論争の泥沼の中に入っちゃってどうしようもない。刑事事件では、民事の疫学的手法が使えるのか、違う見解があってもいいのか。環境庁の役人が確か2年ぐらい前に担当者が自殺して、彼はちょっと僕の個人的関係で知り合いだったものですから、差し支えない範囲でお話しいただきたい。彼が内面苦しんでいたことがあったのかどうか。

豊田 1番目の問題点については、尾崎弁護士に答えていただきます(笑)。弁護団会議では必ず情勢討議をやりました。ただ、必ず情勢討議をやっても、現地へ行ってきた部隊、あるいは環境庁と直接ぶつかった部隊、あるいは国会で直接やっている部隊の情勢判断と一般の弁護団との間で必ずしも認識は同じ重みではない。言葉は同じでも理解度は違ってくるということがあるんです。ですから、そういう意味では弁護団会議での議論が、おそらく形骸化したと見る人もあるいはいるかもしれません。何しろ私が覚えているのは、やがて解決するということをしきりに言っているのにちっとも解決しないものだから、また同じことを言っているのかという具合に、弁護団自身が斜めに見ていた時期もありますからね。ですから、そういう意味では本当は弁護団全体で民主的に討議して、尾崎君だけが4百何十回行かなくて、代わる代わるに行けばいいんだけれども、なかなか人的な代替性がないとか、人とのつながりがいろいろあるわけだから。そういう意味では十分議論したかといわれると必ずしもそうでない面もかなりあったのではないかという感じがします。

2番目の、解決の時期、中身の食い違い。これは解決の時期については完全に狂いました。何しろ、最初スモンから弁護団を集めてみんなでやろうといったときには、3年で解決するといったのですから。3年で解決するといったのはなぜかというと、水俣病については2次訴訟で既に判決が出て勝っているわけですからね。どこでもやれば同じような判決が出るだろう。そうすると、われわれのほうも短期決戦でいけるんじゃないか。そういうことでせいぜい主張1年、立証1年、判決・解決に1年としても3年といったんですが、これが総スカンを食いましてね、みんなから。お前に騙されたと。そこで、何年とかいう数字を出さないで、桜の花の咲くころにはとか(笑)。毎年1月の5日か6日に全国連の総会を水俣でやるんです。ことしの桜の花の咲くころには絶対解決する。解決しなければならないとやるわけです。桜の花が散ってもちっとも解決しない(笑)。何年後の桜の花の咲く時期かという、こういう椰楡した質問が返ってくる。しかし、判決では病像論で勝っている。そうすると、国の貢任では、勝つ場合もあるし負けるかもしれない。ただ、チッソの責任は争う余地がない。国だって責任がないとは誰も言わないわけですから、解決はそう難しい先ではないという具合に思っていたんです。それが細川内閣ができて、細川熊本県知事が日本新党を引き連れて総理になったときに、被害者の人たちはこれで解決だと思った。だって熊本県知事のときには、要するに機関委任事務を返上しても国と闘うと言った知事ですからね。みんなそう信じ込んだんです。ところが、細川内閣になって、プロジェクトチームはできたけれどもどんどん難しくなりました。村山内閣になったときに、私どもは逆にどんな内閣でも自分たちが闘って解決をするという方針を決めたのです。細川だから解決の情勢が生まれたとか、村山だから解決の情勢が生まれたという判断はやめようと。自民党の内閣であってもわれわれは解決するんだ。そういう闘いをわれわれは組む必要があると意思統一をしました。いかなる内閣であっても必ず勝つ、解決するということに言葉を置き換えていったんです。

結局、なぜ難しかったかというと、昭和53年に関係閣僚会議で水俣病の方針を政府が決めていたからです。患者切り捨ての方針も、チッソに対する金融支援策も。それは私たちも知っていました。本で読んで字面の上では知っていました。実際にぶつかってみると、結局向こうは閣議が後ろにあるわけです。だから環境庁の悪口は私さっき随分言いましたが、環境庁は、だって53年の閣議があるんですから閣議を変えるわけにはいきません、こういう考え方なんです。ですから、3年が5年になり、桜の花の咲くころという話は、何回も桜が咲いては散り、咲いては散ってしまった。細川が生まれて近づいたとみんなが思ったけれども、結局最後は自分たちが闘うしかないということになったんです。最後の年は本当にすごかったですね。首相官邸前などの座り込みを100回ぐらいやりました。それから「首相直訴」。巻紙に首相直訴状を書いてきて首相官邸前で読む。それでもうんともすんとも言わないから、今度は「連判直訴」ということで各地の原告団が全部判子を押して、これを首相官邸前で読み上げながら、それで座り込みをやる。そのことによって、結局社会党議員も、いろんな中傷誹謗を受けながらも、人道問題だからということで、頑張ったんです。連立与党を動かしたのが被害者の運動だった。被害者の運動が政府に最終的には解決を迫ったということだと思います。時期的には本当に狂ってしまいました。12年。だから3年から見ると9年も長く、楽しく運動をさせてもらったことになるのです。

中身の問題で言えば、責任の問題と病像の問題と補償の内容の問題といろいろあるんですけれども、私は責任の問題についていえば、マスコミのなかには国の責任を和解条項の中に書かせずに訴えを取り下げてしまった、これは国の責任の追及を放棄したものではないかという議論があります。しかし、私どもは総理大臣が初めて謝罪をして、しかもその謝罪の文章は閣議決定の文書です。いまだかつてないことです。スモンのときだって橋本龍太郎厚生大臣が、確認書の調印のときに来て頭を下げただけですよ。HIVのときには菅直人厚相は確かに患者に言われて、非常に深々と頭を下げた。その後彼はいろいろやったけれども、しかし、閣議決定で謝罪文をつくって謝罪したというのは、この国の人権闘争では初めてのことだから、そういう意味では謝罪はきちんとしている。責任の取り方の問題として、国はどんな買任を取るべきなのか。金を払うべきなのかという問題が当然出てくるわけです。和解調書上の責任を問うとすれば、国が当事者として金を払うということを示さなければいけない。これをめぐって、これだけあくどいチッソに国が肩代わりして金を払う必要があるのか。国民の税金を使う必要があるのかという議論もありました。したがって私どもとしては、国が潰れかかったチッソ、いまチッソは1500億の借財を抱えて吹けば飛ぶような状態です。まさにいまは国営会社ですよ。そのチッソにさらに追加の約260億の金を出して、また最近50億だして、300億を超える金を出して、これを補償の原資にさせたということは国が自ら責任を取ったのと同じことではないか。そして、一番張本人のチッソにはとことんこの金は国に返させていく。こういう仕組みを取った。

和解調書の中に、字面上責任を取るということを書かせた歴史は、サリドマイドに始まります。スモンがそうです。しかし、サリドマイドで国は謝罪するといって書いた、スモンでも謝罪するといって書いた、再び薬害を起こさないという決意をサリドマイドでもスモンでも表明したけれども、結局また、HIVを起こしてしまった。そういう意味では、和解条項の中に謝罪の文章をどれだけ美辞麗句を載せるかという問題ではなくて、その闘いを契機にして本当に官僚の体質や仕組みをどうわれわれが変えていくのかということにつながってこなければ、本当の意味での国の責任の取らせ方にはならないのではないかという具合に思っています。

補償の問題について言えば、260万円というのは、さっき言ったように非常に低い金額です。しかし団体加算金38億円が出ておりまして、これは一人頭に直しますと190万で、トータルで450万。450万というのは福岡高裁が和解として提示した400万と、東京地裁の判決の350万を超えているわけです。そこは評価の問題になってきて、金が多いとか少ないとかというところであまり議論するのは、私たちはやりたくない。逆に一時金は確かに少ないかもしれないけれども、医療費と月々の療養手当てがきっちり制度的に確立することができた、それを勝ち取ったという点で、むしろ補償の内容については一時金は少ないけれども、仕組みとしてはいいものを勝ち取ったのではないか。

刑事分野における疫学の問題については、前に日弁連の人権委員会からも日本の公害訴訟における疫学の問題について聞かれたことがあります。そのときも答えたんですけれども、私は刑事の疫学と民事の疫学は違っていいと思う。千葉のチフスの事件というのは、そういう意味ではおかしいと思うんです。民事では誰が賠償を担うかという公平の観点から疫学的手法を使って絞り込んでいくわけです。それで因果関係を決めていくわけです。刑事の場合には疑わしきは罰せずという大原則があるわけですから、間接事実で埋めていってそれで事実を認定する場合もありますけれども、それはかなりのシビアなものでなければいけないだろうという具合に思いますので、刑事の疫学と民事の疫学というのは、私は違って当然と思います。

最後に山内局長の死亡の話ですけれども、水俣から福岡へ移動する特急電車の中へ突然電話が入って、「豊田さんがいたら直ちに電話口に出てください」と呼び出された。電話を取ったら大変なことが起きたんだと知らされました。ちょうど北川石松環境庁長官が水俣へ行っている日なんです。私も水俣へ行ってその特急で帰ってくる汽車の中で車内電話で呼び出され、そして自殺したという話を聞きました。率直に言って、私ども山内さんと話し合ったことは1回もありません。会ってくれなかったんですから。ただ、いろいろ人脈だとか官僚の図式から考えると、あの人は非常に良心的で、この機会に何らかの形で解決をしたいと考えていたようです。中身はわかりませんが。解決しようという方向で、どうも山内さんは動こうとしたんだけれども、なかなか賛同を得られなくてああいう不幸な事態になってしまったという具合に聞いています。その後彼についての本が出ていますけれども、どちらかというと早期に解決をしたほうがいいという立場にあったと書かれています。

朝倉 どうして生活を支えていたかと、そのヘんのところも含めて、私の聞きたいところなんだけれども、何で食べているのかわからないぐらいなんですよ、同じ弁護団の中で。それをちょっとそのへんも含めてちょっと話しをして。

尾崎俊之 確かに後の人が同じことがやれるかという目で自分のことを理解してみても、自分も奇跡的にやれたんだというふうに思っています。ともかく自前でもってやるわけですから、いまが生きていかれなかったらやりたいこともやれない。だから仕事はちゃんとやりました。生活ができるだけの収入があったから行けたんです。ただし、家族に迷惑かけたことを含めて、低空飛行かすかすのところですね。そういう意味で、正直言って貯金というのは1銭もありません。だけど、たまたま運良く10年間ずっと同じレベルの生活ができたからやってこれた。自分としてはやって良かったと本当に思っています。それは何でかというと、豊田さんの話しがバックにあるのでおわかりいただきやすいと思うんですけれども、この運動はこの裁判の闘争は確実に前進し続けたと思うんです。自分自身がいまの時期、ここまで来れたということに、なるほどこれだけ頑張ったからここまで来れたんだという確信が持てる、常にそういうことの繰り返しで、前へ出れば出るほどいろんな新しい局面に、自分が首を突っ込めば突っ込むほど、そこで自分がなにがしのことが少しでもやれて、それによって少しでも物事が動くという一番いい経験ができるという意味では、こんな楽しいことはない。だから、苦しいと思ったことは一度もありません。とにかく楽しくて楽しくて、だからまた次も行きたくなるという、そういういい瞬間の繰り返しだったと思うんです。

それともう―つは、そこでつき合うことになった原告、支援の人、あるいは熊本県の職員、こういうありとあらゆる人との間で、それなりの人間関係ができて、それがまた楽しくて。それは確かに距離を置かなければならない人たちもいるけれども、その中でもそういうつき合いが楽しい。そういう意味では本当に幅の広いおつき合いをすることができた。それが全部自分の財産になっているなというふうに思うんです。ですから、水俣病は終わったといわれているんですけれども、私はこれで出水とは別れちゃうというようなことができない。原告の人が新しい被害者の会をつくって全国組織を1月25日に旗揚げしました。いま獲得した月々の手当てなどを絶対に失ってはいけないということを、これからも、今までの闘いを生かしてきちっと政府に訴えかけていきたいと、そういう被害者の人たちの心意気があって、そういうことのために世話人たちが集まる機会があれば、私は出かけていくつもりです。本当にいい出会いがあったと思います。

(会員) いろんな考えの人が支援者の中にいたと思うんですけれども、本当に頼りになったのは。あとマスコミではいろんな中傷もあったと思うんです。あるいは世論がずっと動くと好意的だけれども、そうでないと冷たいとか。

鈴木尭博 水俣病について支援した人というのは本当にいろんな分野、そして人数もおそらく大変な人数の人たちが水俣病の解決のために何らかの関わり、貢献をしたんじゃないかと思います。最初、弁護団が特に東京の弁護団が訴訟を東京地裁に起こすということで、まず東京で支援をしてもらうにはどうしたらいいかと、弁護団でいろいろ検討したんです。それまでスモンの裁判をやってきて、スモンの解決も厚生省に対する国民的な世論を背景に闘ったという運動的な要索が強かったですから、スモンの場合には労働組合、東京のいろんな区に区労協というのがあり、そういうところを基盤にしながら、総評も解決の中心を担う、支援実行委貝会というのをつくったわけです。そういうスモンの運動に関わった人たちに、水俣病の場合もまずやってもらおうということで取り組んだ。私たちが取り組んだ水俣病の段階になると、労働組合では連合が生まれて、労働組合の大きな流れが分かれていったという非常に状況として厳しくなっていき、水俣病についてまず動いてくれたのは、スモンで実際に患者の家に行ったり、厚生省前に何日も続けて行ったり、そういうふうに足を本当に使って動いてくれた人たち。その人たちにまず現場を見てほしいということで、現地調査というものが行なわれました。毎年8月に現地調査をやっていきましたが、東京から最初は50何人で、50人がやがて百数十人規模になる。毎年行くとその人たちがまた東京に戻ってきたら自分の職場やいろんなつながりの人たちに、人権問題だし自分たちの問題でもあるということで、それがいろんなところに反映する。おそらく現地に現地調査で行ったのは延べで1000人ぐらいになるんですかね。その人たちがまた一生懸命活動するということで、その周りの人たち、1人の人が10人に訴えるとたちまち1万人から数万人というくらいになるわけです。その運動の主力を担ったのは労働組合からさらに消費者・市民団体、それと朝倉弁護士が中心になったけれども、学者、文化人というふうにだんだん層が拡がっていった。

例えば水俣病のビラまきを東京でやると、どこがいいか、一番効率的にやるのは大団地というので、数万人が住んでいる団地にビラまきを、ビラまきといっても1軒、1軒ノックしてビラを渡しながら話し込むという、それで署名をしてもらう、あるいはカンパをもらう。そういう中で団地の中でも自治会を中心に支援者がひろがる。人間のつながりがだんだん増えていった。水俣病というのは誰でも知っているんですね。小学校の教科書から中学の教科書でも書かれている。しかし、もうとっくに終わっていたはずだと。それがなぜまだ解決していないのか。そこでみんな水俣病に関心を持って、またこれは決して人ごとじゃなくて自分たちの食卓に載る食べ物の中にだって有害物質が入ってくるかもしれない、ということで支援者が拡がってきました。そして運動としてかなり大きな力を発揮したのは、自治体の署名、自治体首長の署名。これは全国の都道府県知事が水俣病の早期解決を求める意見書を国に対して出すという運動です。日本の総人口の過半数を超える自治体の首長、東京都知事ももちろんですけれども、首長が意見書を出した。熊本ではすべての市町村の首長が意見書を出した。そういうことで各自治体も含めると水俣病の解決に役立ったような支援というのは、莫大な規模のものであるというふうに思います。

マスコミ対策も確かに当初はマスコミのほうから、東京の運動については特に熊本のある新聞社なんかは、必ずしも東京の動きを温かく見てはいなかった。そのマスコミが国民の運動として大きく発展してくるにつれて、水俣病の記事をいろんな機会に出す。スモンのときよりもずっと水俣病の記事が増えていった。実感としてわかっていった。それが一番大きかったのは、各裁判所で和解勧告を出しました。その和解勧告に基づいて国はその勧告を踏まえて解決すべきだという論調の社説がほとんどすべて、地方紙も含めてほとんどすべての新聞に掲載された。

社説やいろんな論説、記事、新聞やテレビなんかでの解決に向けての報道は、大変役に立ったと思います。

朝倉 ありがとうございました。水俣病を語るときには水俣病の支援の運動が、不可欠だということです。水俣病の関係者、弁護団、元の大変苦労した事務局の方々が見えていますので、ちょっとお立ちいただけませんか。(拍手)

こういう方々が水俣病の運動を支えてきたということです。どうもありがとうございます。今後も水俣病の弁護団はいろんな形で水俣病の教訓を生かして頑張っていくということですので、最後に拍手で激励をしていただければと思います。きょうの豊田先生の講演会をこれでお開きにさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

(期成会『Wa』1996年第4号所収)

インタビュー 木村濱雄会員(7期)に聞く

2019年4月5日

木村総合法律事務所

聞き手 並 木 政 一(31期)

期成会創立当初からの中心的メンバーであった木村濱雄会員(7期)から、創立当時の思い出や弁護士会の状況などを伺った。今とは時代背景が全く違うが、期成会の草創期の話しは興味深く、弁護士としての生き方としても参考となるものであった。

期成会の創立

並木 期成会の結成は、どのようなきっかけから生まれたのですか

木村 まったくの偶然でした。私は弁護士登録早々から、役員選挙で飲食の供応を受ける場に呼ばれて行ったことがありました。同期からの頼みでしたので断ることができなかったからですが、このような選挙活動の実態に批判的な意見をもっていました。同じような思いを持っていたのは私一人ではありませんでした。

記憶の範囲で言えば、3期の樋口俊二さんと鴨田倭信さん、4期の増岡章三さんと7期の私が、昔の東弁会館地下の食堂で偶然に会ったときに始まります。それぞれが弁護士会の現状を憂える話をするうちに盛り上がり、選挙の浄化と東弁の民主化を旗印に会を作ろうではないかということになったのです。私たちはもともと顔見知りで、大派閥を中心とする弁護士会の在り方に疑問を持っていましたので、どの派閥にも入っていませんでした。

並木 結成に向けて同志を広く募ったのですか

木村 積極的に勧誘した記憶はありません。弁護士会の状況を憂えた人が自然に集まってきたような感じです。派閥に入っていた3期の石島泰さん、6期の河崎光成さんもそこを抜けて入ってきました。

並木 当時の社会的状況の影響を受けたという面はあったのでしょうか

木村 正直なところ、私を含めて社会情勢に関する問題意識はあまりなかったのではないでしょうか。弁護士会自体もまだまだ社会的問題に対する活動は少なかったと思います。

当時の弁護士会の実態

並木 当時であっても、役員になろうという人や、弁護士会に関わっていた人たちの頭の中には人権擁護と社会正義を謳った弁護士法はあったのではないですか。

木村 観念的には弁護士法1条の意義は分っていたでしょうね。しかし、それをちゃんとした問題意識として持って活動に生かした人は少なかったのではないでしょうか。

並木 派閥が弁護士会を牛耳っていたという実態は、どのようなことに表れていたのですか。

木村 まず、派閥に入っていないと弁護士会の委員会に入れませんでした。私もそうでした。また、派閥のボス(年配の弁護士)が役員室に来て、役員をけん制しリードすることが日常的に行われていました。

  私が東弁の副会長をやっていた昭和45年の頃でも、ボスたちは役員室によく足を運んできていました。

並木 どのような事柄について注文してくるのですか

木村 人事のことが多かったように思います。その他でも、弁護士会の活動や在り方に係ることにも口を出していました。自分たちの考える方向に弁護士会を向けるということでしょうか。

  弱小会派出身の私は、それに対抗するために背広の内ポケットに辞任届を忍ばせて頑張りました。

並木 人事とは、司法問題対策委員会、人権委員会、修習委員会などの委員長、日弁連理事や司法研修所教官、最高裁判事の推薦などですか。

木村 そうですね。今は全くありませんが、裁判所から推薦依頼のある大型破産事件の管財人の人選などもそうでした。

並木 弁護士会の人事の問題では、「パラシュート人事」と揶揄する言葉を聞いたことがあります。会長など役員をやりたい人には経験しておかないといけない委員会が複数あって、そこの委員長として突如パラシュートのように降りてくるという意味です。このような現象は今はみませんが、当時はそれが普通だったのでしょうね。

並木 ところで、あの有名な期成会の綱領は主にどなたが作成されたのですか。

木村 樋口さん、鴨田さん、増岡さんが主だったと思います。

並木 弁護士会の運営の民主化や選挙の浄化など綱領にある激烈な表現はすんなりと決まったのですか。

木村 異論があったという記憶はありません。当時の役員選挙の実態があまりにも酷かったからです。選挙期間の1か月間にわたってレストランを借り切って、連日のように飲めや食えやと続けていたのです。また、黒塗りの高級車で会員の自宅などを戸別訪問してウイスキーを配って回っていました。増岡さんは受け取らなかったようですが、弁護士になったばかりの私は、ご苦労様ですと言って貰っていましたね(笑い)。

並木 増岡先生は本当に立派でしたね。

木村 増岡さんは、弁護士会の総会でも自分の意見を堂々と表明していましたね。その姿は脳裏に焼き付いています。立派な方です。

並木 他の期成会の会員で印象深く残っている方はどなたですか

木村 樋口さんは論客でした。もっとも、増岡さんのように総会などで前に立って、ばーっと言うタイプではありませんが。丸ビルに事務所があり実にスマートな人でしたね。

並木 石島先生はどうですか。私は、石島先生が総会委任状問題の議論のなかで大派閥を厳しく批判する姿を覚えています。他派閥の人を糾弾する迫力でした。派閥を、人事を目的して義理と人情で集合した無思想な集団と定義したのは石島先生だったでしょうか。

木村 石島さんは、一高東大卒。弁舌で肺腑を突くような鋭い論法でした。頭が切れすぎて怖いくらいだった。他方で、性格は明るくて親しみやすい、ぶつかっていけるタイプの人でしたね。

並木 その他の草創期の先生方はどうですか

木村 3期の松井康浩さんは、早稲田卒。いつも話に筋が通っており、正論ばかり言う人という印象です。私などが軽く叩いても扉を開かないような厳格な人でした。鴨田さんは、東北大学卒。純朴なところがあって人柄も面倒見もよい人でしたが、一面では原則を曲げない厳しさがありました。3期の齋藤一好さんも東大卒で鋭かった。戦争中は海兵で潜水艦の艦長をしたと聞きました。

3期の高橋高男さんは、温厚で親しみやすい人柄でした。

4期の竹沢哲夫さんは、頭が良い、温厚な人です。

同じく4期では井出正敏さん、内谷銀之助さんなどは楽しい人でした。とくに内谷さんは、期成会の会計を長年見てくれていました。

何故か分かりませんが5期は一人もいないのです。6期では河崎さん、陸士で軍人らしいところがありました。

私の7期は・・・・・、古い人はみんな亡くなっている、・・・元気なのは僕くらいかね。

改革の成果

並木 ところで、期成会が追及してきた選挙の浄化、公正な人事と運営の民主化などの成果があがった、弁護士会は変わった、という実感はいつ頃からありましたか。

木村 確かに、弁護士会が良くなったなという印象はありました。期成会を作って12、3年経ったくらいからでしょうか。盤石な派閥の支配が改まるには世代交代も含めて時間が掛かりますよ。

並木 派閥支配が強かったのは東弁だけですか。

木村 その点はよくわからないけど、似たようなものではなでしょうか。一弁は恵まれたおとなしい紳士の集まりという印象です。二弁は派閥が多くて過激な人もいたが、まずは東弁を変えようということだったので、ほかの弁護士会のことには関心が少なかったですね。

並木 東弁を変えるための具体的にどのようなことをされたのですか

木村 まずは選挙の浄化と人事の公正。これが最大の目標でした。

選挙会規を改正しました。法曹親和会の戸田宗孝先生が委員長で、僕が副委員長のときに、戸別訪問と供応を禁止しました。違反したら懲戒処分です。それまでは選挙会規にはそんなことは書いてなかった。他の派閥でもまじめな人は、現状に問題意識をもっていたので実現したのでしょう。

人事の公正という目標については、制度としては変えたものは記憶がありません。

並木 東弁には以前から人事委員会がありますが、その委員の構成は派閥の力関係(常議員の数)で決まっています。従って、無派閥の人が人事委員になることないのです。そのような仕組みでよいのかという疑問もありますが、いかがでしょうか。

木村 私はそういう問題意識もったことはありませんね。

並木 いまは人事委員会が決めていますので、昔のように派閥のボスが決めるという実態はないと断言してもいいと思います。

日弁連の改革へ

並木 期成会ができて13、4年目の頃には、東弁がよくなってきたと実感するようになったそうですが、そのあと20年目くらいにかけて日弁連の会長選挙に目が向けられたのはどうしてでしょうか。

木村 日弁連会長も、東弁のように大単位会やその派閥のボスが談合して決めていたらどうしようもない。日弁連も民主化する必要があると思って、大阪に出向いて大阪弁護士会の革新派の弁護士と相談して進めてきました。大阪にも同じように日弁連会長選挙の実情を憂いている人たちがいたのです。

並木 日弁連改革の具体的な内容は、全会員による直接選挙制ですね。それまでの代議員による間接選挙と違って、ボス支配はゆるむし、供応接待もやりきれないだろうということですかね。

木村 東弁のような大きな単位会のボスや、会長経験者が集まって相談して順番を決めていた。話し合いが付かないときはくじで決めた、くじを引く順番をジャンケンで決めたという逸話も聞いたことがあります。

並木 会長の任期を2年制にしたことも大きな改革ですね。

木村 1年だと名誉職で終わってしまう。なるために力を注いてきて、やっとなったと喜んでいるうちに1年はあっという間に過ぎてしまう。会長になっても何もできないですよね。

並木 東弁会長も同じではないのですか。

木村 基本的には同じでしょうね。

並木 東弁会長の任期を2年にしようという考えはあったのですか。

木村 それはなかった。任期を長くすると日常の仕事ができなくなるので無理でしょう。自分が副会長やったときも事務所に1日も出ることができなかったですから。任期は1年が限界だと思う。

並木 期成会は、日弁連の執行力の強化のために、東弁から出す日弁副会長を分離副会長として、東弁会長の兼任ではなく別の人を出す制度を作ったことがありますね。しかし、この制度は数年でなくなりました。私は、松井先生が分離副会長にチャレンジして僅差で敗れた選挙を覚えています。この制度をやめた過程はどうだったのでしょうか。

木村 私も分離副会長制度を主張したのが期成会だというのは覚えますが、なくなった過程は記憶がないな。推測するに、やはり兼任のほうが会務を運営しやすいという点はあったのではないでしょうか。

期成会に足りなかったこと

並木 振り返ってみて、期成会に足らなかった点はありますか。

木村 期成会の人は理が勝ち過ぎていて情の部分が希薄ですね。もう少し情というものを重視した運営を考えた方がよかったと思います。期成会の中心的なメンバーであった松井さんや鴨田さんは、とにかく厳格な人でしたから、そういう人の影響でしょうか。

並木 弁護士会の運営にも同じようことが言えますか。

木村 一時期の東弁はそういう傾向があった。期成会の影響力が強いときは特にそうでしたね。世の中はすべて理屈で動くわけではないのですがね。

並木 私は、いまの弁護士会もそういう傾向が強まっていると思います。東弁の運動会も予算の関係で中止になりました。

木村 弁護士が日常業務を離れてまとまるのにとてもよい行事だと思います。ああいうものがなくなるのは残念ですね。

並木 期成会の活動を続けてこられて、もうこのあたりが活動の限界だなと感じたことはありますか。

木村 そのように感じたことはないな。その前に活動の一線から足を洗っちゃったからね。

並木 期成会の運動の成果が表れてきてから、派閥の古い層から巻き返しのような動きがありましたね。総会の委任状の導入や副会長の増員などは、数の力で期成会の影響力を弱めるものだとして猛烈に反対運動をしましたが、後からみると、特に変わって悪くなったという実感はありません。そうなると、私たち何のためにあれだけ反対したのか分からなくなります。

木村 当時は数の論理による派閥支配が一層強まると心配したのですね。法曹親和会も法友会も会員数を大きく増やしていましたから。

いまの期成会について

並木 木村先生は、期成会から送られてくるものには必ず目を通しているようですね。現在の状況や問題点も分かっておられると思いますが、いまの弁護士会や期成会をどう見ていますか

木村 期成会も弁護士会も、人権擁護・社会正義の実現の使命感が希薄になっているのではないでしょうか。おろそかになっているように思います。弁護士法1条の使命を自覚した社会的活動をもっとしないといけない。

他方で、弁護士会がこのような活動をしていることを世間の多くの人が知らないことは非常に残念です。もっと世間に向けた活動をしないとね。プロパガンダがへたなのでしょうか。しかし、それがあまり上手というのもどうかとは思いますが(笑)。

ワークライフバランス

並木 期成会や弁護士会から離れますが、木村先生は仕事と私生活とのバランスを取った生き方を実践されてこられましたか

木村 自分としては意識的にバランスをとってきたつもりです。長男と次男には弁護士になれと言ったことないですから、私の背中をみて弁護士の仕事や生活を理解してくれたのかなと思います。

並木 木村先生の目から見て、期成会やその他の活動に熱心なあまりバランスがとれてないと思われる会員はおられましたか。

木村 自分より先輩方をみてみると、決してバランスとってきたとは思えませんね。この点では松井さんは論外でしょうね。河崎さんはまじめですが頑固でしたね。もう少し柔軟性があってもいいと思ったことがあります。

並木 ところで、木村先生はどのような趣味をおもちですか。

木村 学生の頃から趣味はないですね。いまはスポーツジムに行く以外では本を読んでいます。スポーツジムには週2日は行っていますが、ベンチプレスやダンベルを持ち上げて筋トレをすると、頭の回転にもよいのです。すっきりしますから。

銀座に飲みに行くことには関心はなかったですね。料金などシステムが分かっちゃうと、ばかばかしくて自分のお金で飲みにいく気にはなれなかった。

並木 引退についてはどうお考えですか。

木村 弁護士に引退はありませんが、そろそろ引退してもいい、すべきではないかと思うこともあります。去年くらいからかな。孫も弁護士になるしね。

でも、仕事しないと、ぼけちゃうのがいやですね。奉仕でいいので、健康・ボケ防止のためにやろうという気持ちです。

定年になって仕事から離れられることを、うらやましいとは思ったことはありません。65年弁護士をやって90歳になってもまだやれるですから、つくづくよい仕事だなと思います。サラリーマンをやっていたら25年も前に定年になっていますから、今頃は家で、ぼーっとしていることになるかな。私にとって65年はあっという間でした。そんな長いとは思わない。大変なこともなくて幸せな弁護士生活だったと思います。

若い弁護士に一言

並木 最後に若い弁護士に向けてお願いします。

木村 月並みですが、決して金儲けをしようとしないことでしょうか。

仕事で金儲けしよう、金を残そう、と思うと間違いなく事故を起こすことになりますから。報酬を高く吹っ掛けて懲戒になるとかですね。私は無理な報酬を請求したことはなかったですね。高いと言われたこともありません。

もっとも資本主義社会ですから、株とか弁護士業務以外のことで儲けるのは悪いことではないと思います。私も株をやっていました。ボス弁がやっていたので自分も興味を持ちました。当時は、業界のトップ企業の株を持っていると必ず値が上がっていましたから。そのお金で事務所や家を買うことができました。いい時代だったのです。

依頼者に対する思いやりと感謝の心を忘れちゃいけないですね。弁護士の仕事は法律だけ知っていてもだめなので、情や思いやりが大事です。法律相談をしていると、報酬をもらうという気持ちがなくなることがよくあります。相談料はいらないから、いつでも、またいらっしゃいと言ってあげることもありますよ。

そういう姿勢で仕事をしていると、おのずから信用が出てきて、いい人(顧客)がついてくるようになります。高利貸しとか事件屋さんたちと付き合うと利用されてしまうこともありますから、距離感をもって適当に付き合うことが必要です。私自身も経験がありますので注意して下さい。

(期成会創立60周年記念誌第1巻『わだち』所収)